愛犬ががんに 不可解な行動のすえ安楽死を病院に依頼した夫、その時妻は…
1歳に満たない若い犬が鼻のがんと診断されました。がんは無情にも進行し、鼻に穴があくまでに悪化。その間、飼い主の男性は不思議な行動を繰り返します。なぜか黙認する獣医師。動物看護部の加藤麻友香さんが事情を理解したのは、すべてが終わったあとでした。
「鼻の形がおかしい」と来院
「これは私にとって、ずっと忘れたくない出来事です」
そう語るのは、和歌山市にある花えみ動物病院で愛玩動物看護師として働く加藤麻友香さんだ。
それは加藤さんが初めて就職した動物病院で働き始めて、まだ1カ月ぐらいの時のこと。あたたかい春に、夫婦が1匹のオスのゴールデンレトリバーを連れてやって来た。
ゴールデンレトリバーは生後1年に満たない若い犬だった。夫婦は初めて犬を飼ったという。「犬ってこんなにかわいいのね」と、目を細める姿がほほえましい。
だが、来院の理由は気になるものだった。
「鼻の形がおかしい」
と夫婦は言った。獣医師は大学病院へ紹介状を書き、詳しい検査を受けるよう勧めた。そこで下された診断はむごいものだった。
「鼻腔内腫瘍(びくうないしゅよう)、つまり鼻のがんでした」
目に入れても痛くない愛犬が、「人生これから」のかわいい盛りに、がんを宣告されたことになる。
それからしばらく、夫婦が加藤さんの病院に現れることはなかった。
ところがある日、「ホテルで預かってほしい」と連絡があり、お父さんがゴールデンレトリバーを連れて来院した。
その後もお父さんは、ゴールデンレトリバーをひんぱんに預けるようになる。
「預かる期間は1週間や10日間など長く、しかも最初に約束した日よりも、遅れて迎えに来ることが何度もありました」
預かっている間、ゴールデンレトリバーはずっとドアの方を見ていた。心ここにあらず。大好きなお父さんの迎えをひたすら待つ姿が印象的だった。だが迎えに来る時のお父さんは、いつも悲しそうな顔をしていた。
度重なるホテルの利用は誰の目にも不自然だった。
「でもこの病院には、動物看護部のスタッフが飼い主さんの話を聞く習慣がなくて。私自身、社会人1年目で接遇に慣れていなかったこともあり、自分からお父さんに事情をたずねることはありませんでした」
「安楽死してほしい」
預かり続けるうち、ゴールデンレトリバーはどんどん悪化していった。鼻が溶け、穴が開き、中身がむきだしで痛々しい。
「初めて犬を飼う人が見たら『怖い』と感じてしまう、おせじにもかわいいとは言えない姿でした」
秋になり、あれほど繰り返された預かりの依頼が途絶えた。そして10月のある診察時間の終了間際、お父さんからの電話が鳴った。用件は「ゴールデンレトリバーを安楽死してほしい」。電話口で獣医師が「連れてきてください」と言うのが聞こえた。
久しぶりにゴールデンレトリバーと対面して、驚いた。
「体の厚さが10センチもないほどにやせていたんです。鼻からはポタポタ血を垂らし、ひどい匂いを発していました」
末期的な状態。とはいえ安楽死の依頼は、加藤さんにとってあまりに唐突だった。
処置をするため、獣医師が犬を奥に連れて行く。その時、外で待つかと思われたお父さんが口を開いた。「最期まで見ていいですか?」。お父さんに見守られながら、ゴールデンレトリバーは安らかに息を引き取った。お父さんと一緒にいられるのが本当にうれしそうに、ずっと穏やかな態度で。ゴールデンレトリバーはお父さんを信頼し、お父さんもゴールデンレトリバーのことを本当に大切に思っていることが、最後のふたりの様子からも伝わってきた。
「お父さんはゴールデンレトリバーのことを思って安楽死を選んだんです」
何も知らされていなかった
さて、この病院では、飼い主が希望すれば動物のなきがらを保健所で焼いてもらっていた。さらには地元の保健所と親しくしていたことから、お願いするとお骨も拾ってもらえた。
ゴールデンレトリバーのお父さんも希望したため、保健所で焼いて、お骨を拾ってもらうことに。病院でそれを受け取り骨つぼに収めた。引き取りに来てもらうよう、飼い主夫婦の家に加藤さんが電話すると、お母さんが出た。
「ゴールデンレトリバー(お骨)が帰ってきていますので、お迎えお願いします」
そう伝えると、電話の向こうで「ハァ?」と、拍子抜けしたような反応が返ってきた。「えっ? あなた、今さら何言ってるの。あの犬はずっと前からいないのよ。もう終わったことじゃないの……」。そう言わんばかりの口調で。安楽死のことなど、何もわかっていなかった。
この反応から、加藤さんの中でこれまでのことすべてがつながったという。
お母さんはお父さんに、がんを患った犬を捨てるか処分するよう懇願した。だがお父さんは実行しなかった。できなかったのだ。
困ったお父さんはおそらく、家から離れた空き地かどこかに犬をつなぎ、こっそり面倒を見ていた。そしてどうしてもお世話に行けない日や、雨が降った時などにはホテルを利用した。だが、そうこうする間にも、犬はどんどんやせてゆく。
「私は知らなかったのですが、お父さんは獣医師に何度も、安楽死の相談をしていたそうです。いよいよ何も食べられなくなり、あの夜ついに決断したのだと、あとになって獣医師から聞きました」
思い返せば、獣医師の行動にも不可解な点はあった。預かりが延びても、文句ひとつ言わなかったのだ。
「安楽死した動物を保健所で焼いてもらう場合、獣医師は勉強のため、飼い主さんの許可を得て、遺体を解剖するのがつねでした。でもあのゴールデンレトリバーだけはしなかったんです」
獣医師の気持ちはわからない。だが、お父さんの事情を知る者として、複雑な思いがあったのかもしれない。
3年後、加藤さんは大学附属の動物病院に転職する。そこは、あのゴールデンレトリバーががんと診断された病院だった。ゴールデンレトリバーのことがずっと気になっていた加藤さん、保管されていたカルテを探し、目を通した。
「非常に悪性度の高い腫瘍で、治療の選択肢もない状態だったことがわかりました」
夫婦が直面していた厳しい心情が、手に取るように伝わってきた。
カルテに書かれていた真相
加藤さんはお母さんの気持ちを、こんなふうに想像する。
「初めて飼った犬が大きな病気になり、顔が崩れてしまったら、悲しみとショックのあまり現実を受け止められなくても無理はありません。その結果、『こんな犬、いらない』と言い放ってしまったのではないでしょうか」
死期が目前に迫ったタイミングで、安楽死が選択肢としてあったことは、間違ってはいなかっただろう。だが加藤さんはあの時、こう思わずにはいられなかった。
「最後、ご夫婦の心はバラバラでした。もし私がご夫婦の話を聞いてあげて、悲しみに共感できていたら、お母さんが犬を拒絶したり、その結果、お父さんが一人で悩むこともなかったかもしれない。たとえ結末は同じでも、『この子には、この方法がよかったんだ』って皆が納得しながら、犬とお別れできたんじゃないかなって……」
「動物看護」とは、患者である動物だけでなく、飼い主の心もケアすること。獣医師よりも身近な存在として、病気の動物を抱えた飼い主の気持ちに寄り添い、動物との向き合い方をサポートする。「自分はもっと何かできたのではないか」。ゴールデンレトリバーの出来事は、加藤さんの胸に動物看護の本質を、今なお問いかける。
(次回は6月13日に公開予定です)
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