「僕は目が見えないらしいけど、ここにいれば不自由ないよ」(小林写函撮影)
「僕は目が見えないらしいけど、ここにいれば不自由ないよ」(小林写函撮影)

呆然自失する飼い主と普段通りの愛猫 「目の前のことに夢中になれれば憂いはないよ」

 その日の午後、餡味を連れて純平さんと真紀さんは帰宅した。茫然自失状態の2人に、墨はいつものように「ニャッ!」と機嫌よく寄ってきた。

「餡味さん、帰ってきたよ。亡くなっちゃったよ」と声をかけ、キャリーバッグの中で動かなくなった餡味を見せた。

 墨は、ほんの一瞬、匂いをかぐと、すぐに離れた。

 それから餡味をお気に入りのベッドに寝かせて、リビングに安置した。

 だがそれっきり、墨が近づくことはなかった。

(末尾に写真特集があります)

やんちゃな黒猫「墨」

 都内の1軒家に住む純平さん、真紀さん夫婦が、黒猫の「墨(すみ)」(オス・推定2歳)を迎えたのは、2021年の秋だった。

 外の猫を保護している友人から「2匹目にどうか」と打診されたのがきっかけだった。

 生後3週間程度で、左目がカラスに突かれたらしく潰れていた。右目も、瞬膜という、目頭にある薄い白い膜が飛び出して表面に癒着していた。人や物の影は認識できるらしく、暗闇で生きているわけではない。だが、両目が見えないことには違いなかった。

 当時、家には「餡味(あんみ)」という推定4歳のメスの猫がいた。ちょうど「もう1匹いてもいいかもね」と、夫婦で話をしていたときだった。これは縁だと感じ、迷うことなく黒い子猫を受け入れ、「墨」と名付けた。

「墨です。墨汁のように黒いからだよ」(小林写函撮影)

 墨は驚くほどやんちゃで、運動神経のよい猫だった。

 キャットタワーは、柱を伝って一気によじ登る。その素早さは、野生の猿のようだ。

 じゃらし棒で遊ぶのも大好きで、カシャカシャと音が鳴り、光を反射するような色や素材のものなら、なんでも夢中で飛びついた。おもちゃを使ってキャットタワーの上に誘導し、てっぺんで食いついたところで手を離す。するとステップを器用に使って降りてきて、得意そうに純平さんの足元に置く。

 本当に目が見えないのかと疑うほどだ。

「あ、餡味さんだ、遊ぼう」(小林写函撮影)

 人懐っこく、お客は誰が来ても大歓迎で、屈託なくすり寄っていく。それは成猫になっても変わらなかった。

 甘えん坊で、家で仕事をしている純平さんのあとをいつもついてまわる。邪魔ばかりするので仕事部屋に入れるわけにはいかない。コーヒーブレイクのために純平さんがリビングに現れると、その足音を聞いて待ち構えている。「遊んでくれるの?!」と言わんばかりに「ニャッ、ニャッ!」といつもうれしそうに鳴いた。

墨とは正反対の「餡味」

 先住猫の餡味は、墨とは違い、おしとやかでおとなしい猫だった。

 元保護猫で、推定1歳のときに迎えた。聞き分けもよく、いたずらもせず、純平さんが仕事場に入れても決して邪魔をしなかった。

 4年間、「お姫さま」として静かに暮らしていた餡味にとって、元気いっぱいの墨はうっとうしい存在だったようだ。

「あれはお父さんの足音だ、遊んでもらおう」(小林写函撮影)

 墨は、餡味と遊びたくて仕方ない様子だった。かまってほしくて飛びついたりかみ付いたりし、餡味に威嚇(いかく)され、猫パンチを繰り出されてもめげることはなかった。

 餡味が逃げると、墨はどこまでも追いかけようとする。おっとりした餡味に瞬足の墨はすぐに追いついて、首に巻きついて戯れた。

 餡味の安息の地を確保するため、墨が行動できるのはリビングのみに限定するなど導線を工夫することで、なんとか2匹は穏やかに暮らしていた。

「餡味」の様子がおかしい

 墨を迎えて1年半以上が過ぎた、2023年5月のことだった。

 餡味の食欲が減退し、近所の動物病院に連れて行った。

 餡味には持病があった。体調を崩しやすかったので、常に健康には気をつけていた。今回はいつもと少し様子が違うと思い、血液検査をしてもらうと血糖値が高かった。「次回尿検査をしましょう。家で採尿してきてください」と採尿キットを渡された。

 家で採尿のタイミングをはかれないまま数日が経ち、激しい嘔吐がはじまった。それで、以前世話になったことのある高度医療にも対応している別の病院に餡味を運んだ。獣医師は、膀胱に注射針を刺して採尿し、検査をした。結果、重度の糖尿病と診断され、即入院となった。

 インスリン点滴を数日間行った。症状は改善され、見舞いに来た純平さんと真紀さんに「おうちに帰る!」と頭突きしてアピールするほど元気になった。

 ところが、通院治療に切り替えようかという話が出た矢先に体調が急変、2人の目の前で、餡味は息を引き取った。

 その日の午後、餡味を連れて純平さんと真紀さんは帰宅した。茫然自失状態の2人に、墨はいつものように「ニャッ!」と機嫌よく寄ってきた。

「餡味さん、帰ってきたよ。亡くなっちゃったよ」と声をかけ、キャリーバッグの中で動かなくなった餡味を見せた。

 墨は、ほんの一瞬、匂いをかぐと、すぐに離れた。

 それから餡味をお気に入りのベッドに寝かせて、リビングに安置した。

 だがそれっきり、墨が近づくことはなかった。

「目の前のことに夢中になれれば憂いはないよ」(小林写函撮影)

 あれだけ餡味にまとわりついていたのに、この反応は意外だった。

 墨は、自分がほかの猫と違ってハンディを負っているとは思っていない。現状をそのまま受け入れ、今を生きている。

 同居猫の死も、自然なこととして受け止めているのかもしれなかった。

 だが、純平さんは自分を責めた。なぜ餡味の病気にもっと早く気が付くことができなかったのか。もしや墨との生活がストレスを与え、死期を早めたのではないか。

 大好きなお酒が飲めなくなり、家から出られなくなるほど落ち込んだ。

 そんな純平さんに墨は、何事もなかったかのように「遊ばないの?」と無邪気に寄ってくる。

 じゃらし棒をふってやりながら、純平さんは思った。

 この子がいなくなったら、自分は生きていけないかもしれない。

 餡味が亡くなって1週間後、墨に総合的な健康診断「キャットドック」を受けさせるため、純平さんは玄関のドアを開けた。

(次回は10月13日公開予定です)

【前の回】外猫を家に迎えることへの迷いと不安 あの日、負傷した猫と母の一言に背中を押された

宮脇灯子
フリーランス編集ライター。出版社で料理書の編集に携わったのち、東京とパリの製菓学校でフランス菓子を学ぶ。現在は製菓やテーブルコーディネート、フラワーデザイン、ワインに関する記事の執筆、書籍の編集を手がける。東京都出身。成城大学文芸学部卒。
著書にsippo人気連載「猫はニャーとは鳴かない」を改題・加筆修正して一冊にまとめた『ハチワレ猫ぽんたと過ごした1114日』(河出書房新社)がある。

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この連載について
あぁ、猫よ! 忘れられないあの日のこと
猫と暮らす人なら誰しもが持っている愛猫とのとっておきのストーリー。その中から特に忘れられないエピソードを拾い上げ、そのできごとが起こった1日に焦点をあてながら、猫と、かかわる家族や周辺の人々とのドラマを描きます。
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