外猫を家に迎えることへの迷いと不安 あの日、負傷した猫と母の一言に背中を押された
「テトを保護しよう、今、キャリーバッグを家から持ってくるから」
そう母に言われて、鈴さんはすぐに返事ができなかった。
家に入ることを、テトは本当に望んでいるのだろうか。猫と暮らしたことがない自分に飼い主としての責任が果たせるのだろうか、生活が変わることへの不安……。
さまざまな思いが頭の中をめぐり、いざとなると覚悟が決まらなかった。
背中を押したのは、母の一言だった。
「このまま、もしテトに会えなくなってもいいの?」
外猫とのかかわり
東京都内のマンションで両親と暮らす鈴さんの日常に、「猫」が登場するようになったのは、2021年の夏からだ。
その前年、母が大病を患った。翌年の夏には元気になってはいたが、通院は続いていた。折しもコロナ禍でリハビリを兼ねた気分転換のための外出もままならず、夜、涼しくなった頃に家族で近所を散歩するようになった。
散歩コースの途中に、猫たちが多く集まる公園があった。何度も通るうち、猫たちは区から認定を受けたボランティアグループが世話をする地域猫だということがわかった。
その活動と飼い主のいない猫たちの生活が気になるようになった母は、ボランティアに加わることにした。
そのうち母は、地域猫を1匹家に引き取りたいと考えるようになった。
だが、鈴さんはあまり乗り気ではなかった。
一番の大きな理由は、免疫力が低下している母が外猫を引き取ることに、主治医が難色を示していたためだ。公園の猫たちはほとんどがシニアで、ご飯をもらうとき以外は人間に対して心を許しているとは言い難い。
鈴さん自身も、はじめて一緒に暮らす猫としてはハードルが高いと感じていた。できれば、若い猫がいいとも思っていた。
かつては外にいた猫でも、現在は室内で暮らし、人に管理されている猫ならいいかもしれない。保護猫という存在を知った鈴さんは母を誘い、保護猫シェルターを併設した近所のカフェに行ってみた。しかし「運命の赤い糸」で結ばれている猫には出会えなかった。
そうして翌年の1月末の大雪の日、母は高齢で弱っていた地域猫を保護することを決意。一度捕獲に失敗したが、元気な様子で寄ってきたので安心し「明日、また来るね」と別れた。
でもそれっきり、その猫を見かけなくなってしまった。
母の落ち込みようは、そばにいる鈴さんのほうがつらくなるほどだった。外で暮らす猫の場合、毎日、同じ場所で、会いたい猫に会えることは奇跡に近い。
だがもしその猫を家に迎えていたら、その後の母の負担は大きかっただろうと考えると、少しほっとしていた。
ある1匹の猫との出会い
それから数日後のことだった。
鈴さんたちが住むマンションの隣に建つ会社の敷地内に、1匹の猫がいることに鈴さんは気がついた。倉庫の上から、こっちを見ている。
からだの半分が白いキジトラ柄で、はっきりとした顔立ちが印象的だ。別の場所でも何度か見かけたことがあった。首輪はしておらず毛並みが汚れていたので、外で暮らす飼い主のいない猫に違いなかった。
からだは大きく肉付きがよく、食事には不自由していなさそうだった。実際、隣の会社の従業員らしき女性から、ご飯をもらったり、遊んでもらっている様子を目にしていた。
それでも毎日視線を送ってくる。ある日、気になった鈴さんはマンションの敷地内から塀越しにペースト状のフードを猫に向かって差し出した。猫は警戒せずにペロペロと平らげた。
それを何日か続けていたら、あるとき、猫が塀を越えてマンションの敷地内に入ってきた。鈴さんの足元に頭をこすりつけてきたので、恐る恐るからだに触れた。なでると、逃げもしないでじっとしている。
公園の地域猫にはない人懐っこさに鈴さんは驚き、同時に、これまで感じたことのない感情がわきあがってきた。
翌日から、鈴さんは毎日、仕事から帰ると猫に会いに行った。
猫はまだ去勢をしていないオスだった。子猫ではないが表情はどこかあどけなかった。アイラインを引いたようなくっきりとした目元が、エジプト神話に登場する女神、バステトに似ていることから「テト」と呼ぶようになった。
テトは日ごと鈴さんになついていった。毎日、鈴さんを同じ場所で待つようになり、おもちゃで遊ぶようにもなった。鈴さんのひざの上に顔をのせ、なでると「ふみふみ」をし、腕の下から顔を出して鈴さんをじっと見上げた。
鈴さんが自分の猫にしたい、と考えるようになるのは自然の流れだった。
もし、テトを保護することになったら、テトを連れて家を出て、ひとり暮らしをしよう。そう考えていることを、鈴さんは母に打ち明けた。やはり、気になるのは母のからだへの影響だった。
思い詰める鈴さんに対し、母は「まずは隣の会社の人に相談しなければ」と言った。外で暮らしている猫とはいえ、ほかに世話をしている人がいるとわかっていながら、勝手なことはできない。
会社の人からは「社内に家できちんと飼いたいという人間がいるかもしれないので、聞いてみます」と言われた。
だが返事がないまま1カ月が過ぎた。雨の日が続き、テトが現れずにやきもきした4月のはじめ、やっと姿を表したテトだが、なんとなくいつもと様子が違う。
鈴さんからの連絡を受けてやってきた母が「目がおかしい」と気がついた。右目がよく開かず、半目状態になっているのだった。
「病院に連れて行かないと」と判断したのは母だった。
「テトを保護しよう、今、キャリーバッグを家から持ってくるから」
そう言われて、鈴さんはすぐに返事ができなかった。
家に入ることを、テトは本当に望んでいるのだろうか。猫と暮らしたことがない自分に飼い主としての責任が果たせるのだろうか、生活が変わることへの不安……。
さまざまな思いが頭の中をめぐり、いざとなると覚悟が決まらなかった。
背中を押したのは、母の一言だった。
「このまま、もしテトに会えなくなってもいいの?」
娘に、自分と同じ思いはさせたくない。その母の気持ちは、鈴さんの心に響いた。
鈴さんがフードで誘導すると、びっくりするぐらいあっけなく、テトはキャリーバッグに入った。
こうして、テトは去勢手術を受け、鈴さんの猫になった。
右目の状態もすぐにもとに戻った。
テトはいるものの、母の地域猫を保護したいという思いは変わらない。だが甘えん坊で王子様気質のテトとの同居は難しそうだ。
近い将来、もし母が地域猫を家に迎えることになったら、そのときこそはどうしようかなあと、テトの頭をなでながら、鈴さんは考えている。
(次回は9月8日公開予定です)
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