人生初の猫との暮らし、戸惑いだらけのスタート 命を預かる責任ひしひしと

 都内でひとり暮らしをしている英美さんが猫と暮らしたいと思うようになったのは、当時働いていた職場の後輩の影響だ。今から10年前のことになる。

(末尾に写真特集があります)

熱弁を聞いているうちに

 猫との暮らしがどんなに楽しいか。猫という動物がどれほど面白く、かわいらしく、愛情を注げる存在なのか。

 過去に動物と暮らした経験はなかった英美さんだが、何かにつけては猫の写真を見せられ、熱弁を聞いているうちに気持ちが動いた。

 英美さんの職業はパティシエだ。職場では少し前に責任のあるポジションを任され、その仕事にも慣れてきた頃だった。

顔をのぞかせる猫
「こんなところからこんにちは。ジョゼです」(小林写函撮影)

 猫を飼いたいと考えたら、今なら間違いなく保護猫を選ぶ。

 だが2011年当時、少なくとも英美さんの周りでは、保護猫や保護犬の存在は知られていなかった。

 だから、何軒かのペットショップのウェブサイトを見て、気になる猫がいると実際に会いに行った。

内気そうなまなざしの子猫

 心を捉えたのは、ある店舗で出会ったロシアンブルーの生後4カ月の雌の子猫だった。

 複数の子猫たちが遊び回っているブース内で、その子猫はキャットタワーのてっぺんにポツンと座っていた。

 抱かせてもらうと、同じ月齢の子猫よりは痩せて顔が小さく、その分、耳が大きく見えた。「宇宙人みたい」と英美さんは思った。

抱っこされる猫
「うちのお母さんのお菓子食べたことある?人気あるのよ」(小林写函撮影)

 これまで抱っこした猫の中には、自分からひざに乗ろうとしたり、活発で愛想のよい猫もいた。だが、どこか臆病で、内気そうなまなざしの子猫に運命を感じた。

 子猫は「ジョゼ」と名付けた。フランスが好きで、長くフランス菓子の店で修業をしてきた英美さんが、呼びやすく、フランスのニュアンスがあることから決めた。

途方に暮れながらも

 人生初の猫との暮らしは、「楽しい」よりも、戸惑いのほうが大きかった。

 仕事から戻ると、ワンルームの部屋の中では毎日必ず何かが倒れ、落ちて壊れていた。観葉植物の葉や、カーテンにつけておいたタッセルなどひも状のものは、食いちぎられた跡があった。

 心配だったのは、留守中、部屋を駆け回っているらしいジョゼが、誤ってけがをしないか、誤飲しないかだった。危険なものは片付けるようにしたが、それでも「もしものことがあったら」と気が気ではなく、帰宅して部屋のドアを開けるまでは常に気持ちが張り詰めていた。

グレーの猫
「お母さん、今日の生菓子のクリームさ、舌触りがいまひとつね」(小林写函撮影)

 睡眠不足にも悩まされた。

 パティシエの仕事は朝が早い。当時の英美さんは、12時前に寝て、早朝4時半に起きる生活を送っていた。ジョゼの「夜の運動会」は、ちょうど英美さんが寝ついた頃から1時間程度開催された。いったんは静かになるが、やれやれと思ったところで、今度は起床時間の少し前から「ミャー」と鳴き出す。

 いたずらをするのも、活動的なのも、子猫ならあたりまえだし、健康な証拠だ。だが「猫は眠っているか日なたぼっこをしているかの、動きの少ない動物」という認識だった英美さんには予想外のことだった。

 猫と穏やかに暮らせる日は来るのだろうかと、途方に暮れそうな思い抱えながらも、小さな命を預かる責任と覚悟は、強くなっていった。

姿が見えなくなって

 数カ月が経つと、ジョゼの行動は少し落ち着き、英美さんも猫との生活に慣れてきた。

 休みの日には、たまにジョゼを連れて郊外の両親の家に行った。

 ジョゼは臆病で警戒心は強いが、好奇心も旺盛だ。実家に連れていくと初日は押し入れなどに隠れてじっとしているが、2日目になると、父親が読む新聞の上に陣取っていたりする。

 ジョゼが家に来て初めてのお正月に帰省したとき、姿が見えなくなったことがあった。

 親戚が集まって騒いでいたこともあり、誰かがうっかり閉め忘れた玄関のドアの隙間から外に出てしまったようだった。

 英美さんたちは、名前を呼びながら近所を探し回った。河原のほうにも足をのばした。猫探偵に連絡しようか、いやまずは迷子猫の貼り紙だろうと話し合い、作成を試みるが、気が動転して何をどう書いていいのかわからず、手が震えた。

抱っこされる猫
「人前でちょっと恥ずかしいけど、お母さん抱っこ」(小林写函撮影)

「家の中を暗くして、ごはんを置いておけばひょっこり戻ってくるかも」という母親のアドバイスに従い、その日の夜、家族が寝静まった頃、庭に面した窓を少し開けたままにした。

 そして「ジョゼ」と小さい声で庭に向かって声をかけた。

 すると、暗闇に2つの光が浮かび上がり、ぴょんと家の中にジョゼが入ってきた。

 英美さんは大声で泣きながら抱きしめようとした。ジョゼはその手をすり抜けてピアノの上に飛び乗り、驚いたような丸い目で英美さんを見下ろした。

首輪の下に小さな引っかき傷

 1年が経ち、成猫となったジョゼはすっかり落ち着いた。英美さんと一緒の時間に寝起きをするようになり、朝出かけるときは玄関まで見送りにきて、帰ってくると出迎えるのが日課となった。

 その頃、英美さんは退職した。念願だった自身のパティスリーを開業するためだった。

 約半年の準備期間中は自宅にいることも多く、ジョゼと過ごす時間は増えた。

 店がオープンする1カ月前の2014年3月、ジョゼの首輪の下に、小さな引っかき傷があり、脱毛しているのを発見した。

 前にも、頭の毛の一部が抜け、小さなハゲができたことがあった。英美さんが旅行に出かけるため、実家に預けたときだった。動物病院では「環境の変化が原因のストレスでは」と診断された。様子を見ているうちに毛が生えてきて、ことなきを得た。

 だが、今度はかきむしったような跡もあるし、ただの脱毛ではない気がした。傷口も広がっていくようで、英美さんは病院に連れていくことにした。

 この脱毛の症状と、この先何年も付き合うことになるとは、まだ想像もしていなかった。

(次回は3月26日に公開予定です)

【前の回】庭に現れたしゃがれ声の痩せた黒猫 何かを訴えるように鳴く姿をみて家に入れることに

◆英美さんのお店「アディクト オ シュクル」のインスタグラム

宮脇灯子
フリーランス編集ライター。出版社で料理書の編集に携わったのち、東京とパリの製菓学校でフランス菓子を学ぶ。現在は製菓やテーブルコーディネート、フラワーデザイン、ワインに関する記事の執筆、書籍の編集を手がける。東京都出身。成城大学文芸学部卒。
著書にsippo人気連載「猫はニャーとは鳴かない」を改題・加筆修正して一冊にまとめた『ハチワレ猫ぽんたと過ごした1114日』(河出書房新社)がある。

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この連載について
動物病院の待合室から
犬や猫の飼い主にとって、身近な存在である動物病院。その動物病院の待合室を舞台に、そこに集う獣医師や動物看護師、ペットとその飼い主のストーリーをつづります。
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