「俺たちさ、決して仲がいいってわけじゃないんだぜ」(小林写函撮影)
「俺たちさ、決して仲がいいってわけじゃないんだぜ」(小林写函撮影)

あの日の“儀式” 二人三脚で乗り越えたジェントルマンな愛猫「ちゃー」の糖尿病

 N子さんは気持ちを整え、ちゃーを床の上に腹ばいにして座らせた。

 そして、

「ちゃーさん、お願いですから、こうやっておりこうさんにして、協力してください」

 と、背後からちゃーのからだに両手をあて、祈るような気持で背中に顔をうずめた。

(末尾に写真特集があります)

念願の猫との暮らし

 都心に住むN子さんは、多忙を極めた介護職を定年で退職し、両親が亡くなると、一緒に住んでいた家を建て替えて1人暮らしになった。これを機に、長年の夢だった猫との暮らしを実現させるべく、近所で活動をしている保護グループに連絡をとった。

 最初は、猫の一生を託す相手として年齢が高いという理由で拒まれた。だがN子さんが粘り強く交渉すると、預かりボランティアの家にいる猫を紹介された。現在譲渡可能な猫はその1匹だけ、とのことだった。

 それが、当時6歳の茶トラのオス猫「ちゃー」で、ちゃーは猫エイズと猫白血病に感染している「ダブルキャリア猫」だった。

 外での暮らしが長く、保護された時点で推定4歳。血液検査で、2つの病気の陽性反応が出た。人懐こく人間が大好きなのに、病気と若い猫ではないという理由で、譲渡先は決まらなかった。

 ちゃーは、N子さんにトコトコ歩み寄ってきて、警戒することなくその手からおやつを食べた。

「俺がちゃーだけど、何の用?俺の話?ほっといてくれ」(小林写函撮影)

 苦みばしったいい顔立ちの猫で、N子さんにはそれがたまらなくかわいらしく思えた。大きくふんわりした茶色のからだに触れると、自分の中に、何かが流れ込んでくるのを感じた。

 こうしてコロナ禍のさなかだった2020年8月、ちゃーはN子さんの猫になった。

 ちゃーがダブルキャリアであることは、Nさんは気にならなかった。「感染した猫のすべてが発症するわけではない」と獣医師から聞いていたし、病気もちゃーの個性の一つだと思えたからだ。

コロナ禍が明けて

 ちゃーは、おっとりとした性格で甘えん坊の「ジェントルマン」だった。いたずらや粗相などN子さんが嫌がることはいっさいせず、激しい要求鳴きもしなかった。いつもN子さんのそばにいたがり、ゴロゴロとのどを鳴らし、寝るときも一緒だった。N子さんが忙しそうにしているときは様子をうかがい、ひと段落ついたところを見計らってやってくるような思慮深さもあった。

 コロナ禍で家に閉じこもらざる得なくなったN子さんにとって、ちゃーの存在は精神的な支えとなった。ちゃーがそばにいると安心で、姿が見えないと「ちゃーさん、どこにいるの、こっちにおいで」と呼んで抱きしめた。

 そんな相思相愛の「2人」だったので、コロナ禍が落ち着き、N子さんが不定期の仕事やプライベートで外出するようになると、ちゃーの様子が変わった。帰宅すると、玄関に駆け寄ってきて激しく鳴き、家の中でも不安そうN子さんのあとをついて回った。

 ちゃーは、さみしいに違いない。そこでかかりつけ医の紹介で、同じくダブルキャリアの茶白猫「まろん」(オス)を2023年3月に迎えた。

「こんにちは、まろんです。この家ピカピカでしょ、住み心地もいいんだよ」(小林写函撮影)

 まろんはちゃーより4歳年下で、ちゃーよりはるかにやんちゃな猫だった。食いしん坊でごはんの催促も激しく、いたずらも大好き。N子さんをハラハラさせること多かったが、そこが猫らしくて、ちゃーとは違うかわいさがあった。

 まろんは、ちゃーとも遊びたいようで、隙を見てはちょっかいを出したり、プロレスを仕掛けたりした。

 ちゃーは、人間は好きだが猫はそうでもないようだった。まろんがじゃれついてくると迷惑そうに追い払ったり、逃げたりしていた。

 大きなケンカに発展しなかったのは、ちゃーが穏便な性格だったことも大きいだろう。

 半年もすると2匹は互いの距離をはかれるようになり、まろんの行動も落ち着いた。ちゃーも、まろんがいることでN子さんの留守中に気が紛れはするらしく、帰宅のたびにすっとんで玄関に迎えに来ることもなくなった。

 ほっとするような、ちゃーが自立してしまってさみしいような複雑な気持ちでN子さんが過ごしていたとき、ちゃーに異変が起こった。

 そばにいても、ゴロゴロのどを鳴らさなくなった。食欲がおち、飲水量と、排尿量が激増した。

「母ちゃん、最近注射してないけどいいの?」(小林写函撮影)

 すぐに糖尿病を疑い、N子さんはかかりつけの動物病院に連れて行った。血糖値が高く、獣医師からは「注射ですね」と宣告された。

 注射とは、自宅で毎日、血糖値を安定させるためにインスリンを朝晩2回、 N子さん自身が投与することをさした。

 猫に注射針を刺すなど絶対にできないと、N子さんはたじろいだ。だが糖尿病は、放っておけば重症になり死に至る。ちゃーがいなくなることを想像すると、世界から光が消えてしまうような恐怖に襲われた。これと注射を打つことへの恐怖、その2つを天秤にかければ、どちらが重いかは明らかだった。

顔をうずめ「協力してください」

 インスリン注射は、指定された量のインスリンを注射器で吸い取り、猫の背後から肩甲骨の間の皮膚をつまんでブスッと刺す。動物病院でやり方を教えてもらい、練習をして帰宅した。

 果たして、ちゃーは家でおとなしく注射を受け入れてくれるだろうか。ちゃーは、長い外暮らしで運動量が多かったせいか筋肉質で、皮膚が一般的な家猫より厚いらしい。「ブスッと刺すように」と獣医師には伝授されたが、いざ家で、1人で実践するとなると緊張する。

「ちゃーさん、なかなか遊んでくれないんだ」(小林写函撮影)

 N子さんは気持ちを整え、ちゃーを床の上に腹ばいにして座らせた。

 そして、

「ちゃーさん、お願いですから、こうやっておりこうさんにして、協力してください」

 と、背後からちゃーのからだに両手をあて、祈るような気持で背中に顔をうずめた。

 ちゃーは微動だにせず、注射針は「ブスッ」と、問題なくちゃーの皮膚に入った。

 翌日から朝晩2回、インスリン注射の際、N子さんはこの背後から顔を埋めてお願いする「儀式」を行うことにした。

 これをすると、不思議とちゃーは抵抗せずに注射を受け入れた。たまに儀式を省こうとすると、うまくいかなかった。

 針を刺すことに失敗することもあった。ちゃーが不快そうに「ニャー」と鳴くと申し訳なくて涙が出たが、それでも「ごめんなさい、病気を治すためにもう1回協力してください」と頼むと、受け入れてくれた。

 ちゃーは、きっと自分の言葉がわかるのだと、N子さんは確信した。

 N子さんとちゃーの二人三脚での治療が半年続いた頃、ちゃーの血糖値は下がり安定してきた。注射は1日1回でよくなり、数カ月後には正常値に戻り、いったん注射はやめて様子を見ることになった。

「ちゃーさんが頑張ったおかげだよ、ありがとう」

 動物病院から帰宅するとN子さんは、かけがいのない相棒のちゃーを抱きしめた。

(次回は2月14日公開予定です)

【前の回】「猫の世話は楽」という予想を覆されたあの日 それでも2匹はかけがえのない存在に 

宮脇灯子
フリーランス編集ライター。出版社で料理書の編集に携わったのち、東京とパリの製菓学校でフランス菓子を学ぶ。現在は製菓やテーブルコーディネート、フラワーデザイン、ワインに関する記事の執筆、書籍の編集を手がける。東京都出身。成城大学文芸学部卒。
著書にsippo人気連載「猫はニャーとは鳴かない」を改題・加筆修正して一冊にまとめた『ハチワレ猫ぽんたと過ごした1114日』(河出書房新社)がある。

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この連載について
あぁ、猫よ! 忘れられないあの日のこと
猫と暮らす人なら誰しもが持っている愛猫とのとっておきのストーリー。その中から特に忘れられないエピソードを拾い上げ、そのできごとが起こった1日に焦点をあてながら、猫と、かかわる家族や周辺の人々とのドラマを描きます。
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