「お母さんいないけど、ここで楽しく過ごそう」(小林写函撮影)
「お母さんいないけど、ここで楽しく過ごそう」(小林写函撮影)

飼い主と暮らした家で余生を生きたい 慢性腎臓病を患う19歳の高齢猫「ルイ」

 ルイはもう十分に生きたし、早く叔母と同じ場所へ旅立たせてやったほうが幸せなのではないか、そう思ったこともあった。だが、お世話報告書とともに届くルイの写真や動画を毎日眺めているうちに、私は確信した。

 ルイはひとりになっても、叔母と過ごしたこの家で生きたいのだ。

※この記事は『「自分が助かるために犠牲にはできない」 自身の肺がんを押して愛猫「ルイ」を思う』の続きです。

(末尾に写真特集があります)

ルイをどうするのか

 ルイは19歳のおじいちゃん猫で、慢性腎臓病を患っていた。叔母の入院中は、ペットシッターのUさんに毎日の世話と週3回の皮下点滴のための通院を頼んでいた。

 だが飼い主がいなくなってしまった今、ルイをどうするのか。私にとって大きな悩みとなった。

 叔母は生前、自筆遺言を作成していた。そのおおまかな内容と保管場所については、叔母から知らされていた。叔母には6人の姪がいたが、もっとも親しかった私たち姉妹のうち、長女の私に死後の一切の手続きをゆだねることを希望していたからだ。

 亡くなった叔母の書斎の引き出しを開けると、封をされた自筆遺言のほかに、遺言の内容をパソコンで打った書類が別に用意されていた。

 そこには遺産についてと、「飼い猫ルイ」についても言及されていた。内容は「自分の死後、もし生きていたら持参金をつけてNという団体に引き渡してほしい」というものだった。

 Nは飼い主を亡くした猫を引き受ける活動をしている団体で、私も知っていた。だが、叔母が遺書をしたためた数年後に解散していた。

 私は、同じような活動をしているシェルター機能を持つ団体はないかとネット調べた。しかし、ルイのように高齢で持病があり、かつ定期的な通院が必要となるとハードルは高かった。

「ルイです。お母さん知らない?」(小林写函撮影)

 そもそもルイの性格を考えても、ほかの猫との同居は難しいだろう。20年近く叔母と2人、閑静な住宅地に建つ日当たりのよいマンションで何不自由なく暮らしてきたのに、いまさら大部屋生活をさせるのは心がとがめた。

 私か妹が引き取るのは難しかった。私の家には2匹のシニア猫がおり、そろって猫エイズキャリアだ。妹はペット不可の賃貸住宅住まいで猫を飼った経験はなかった。

譲渡先を見つけることは困難

 私は、保護活動をしている何人かの知り合いにルイのことを相談した。

 ある人は「ルイちゃんにとっては不本意だろうけど、どうしてものときはうちのシェルターで引き取る」と申し出てくれた。ある人は「預かりボランティアを探し、そこから譲渡先を募集してみては。高齢でも持病があってもチャンスはある」と励ましてくれた。またある人に叔母がクリスチャンであることを話すと「教会で教会員の人たちに相談してみては」とアドバイスをくれた。

 そこで私は、叔母の教会での葬儀の際、喪主のあいさつの最後に「ルイに愛情をかけてくれる新しい飼い主を探しています」と涙ながらに伝えた。

 だが、名乗りを上げる人はいなかった。

 無理もないことだった。今のルイを引き取るということは、近い将来、看取(みと)りも引き受けるということだ。動物病院のI先生からは「週3回の皮下点滴がなければ、ルイちゃんの容態はすぐに悪化して命を落とすだろう」と言われていた。

「やっぱりお母さんはいない」(小林写函撮影)

 ルイのように気性の激しい猫を病院に連れて行くのは至難の技だろうし、持参金付きだとしても、わざわざ苦労を背負いたい人は普通、いないだろう。

 ペットシッターのUさんには「新しい落ち着き先が決まるまで」と伝え、引き続きルイの世話と通院を頼んでいた。

 初日の通院時、Uさんがルイを楽につかまえてキャリーバッグに入れられたのはビギナーズラックだった。2回目以降、ルイは激しく抵抗し、ときに引っかいたり噛みついたり、ということもあるようだった。

 それでもUさんはさまざまな工夫をこらし、確実にルイに皮下点滴を受けさせてくれた。

最期まで、この家で

 ルイは、叔母が亡くなった直後は「何か」を察したらしく、ギャーギャー鳴いて様子がおかしかったそうだ。だがしばらくすると落ち着き、以前と変わらず過ごしていることが、毎日LINEで送られてくる「お世話報告書」からうかがえた。

 朝、Uさんが現れると玄関まで鳴いて出迎えに行く。フードを与えると待ってましたとばかりに器に顔を突っ込み、終わると洗い物をしているUさんの横でからシンクの縁に飛び乗り、水道から直接水をもらう。

 おなかが満たされると脱走対策が万全に施されたベランダに出て、空を見たり、植物の観察をしたりする。部屋に戻るとキャットタワーにのぼり、Uさんのひざにのって甘え、気がすむと南向きの窓近くに設置してあるお気に入りの猫ベッドで昼寝をする。

「シッターさんがお母さんになるのかな?」(小林写函撮影)

 排泄にも大きな問題はなく、叔母がいなくなったことで体調を崩したり精神的なストレスを感じたりしている様子もない。むしろ以前よりのびのびと、気ままに過ごしている印象さえ受ける。

 ルイはもう十分に生きたし、早く叔母と同じ場所へ旅立たせてやったほうが幸せなのではないか、そう思ったこともあった。だが、お世話報告書とともに届くルイの写真や動画を毎日眺めているうちに、私は確信した。

 ルイはひとりになっても、叔母と過ごしたこの家で生きたいのだ。

 そこで私は、叔母が持参金としてつけるつもりだったお金を、今後のルイのシッティング費用と治療費にあてることにした。

 ルイがもし20歳を超えて生きたとしたら、この持参金では足りなくなる。しかしその場合でも、私の裁量で叔母の遺産から補填することができる。

 こうして、介護付きプライベート老猫ホームとでもいえる環境で、ルイは余生を過ごすことになった。

「この家、こんなに広かったかな」(小林写函撮影)

 ルイは叔母の死後、3カ月間は元気だったが、2024年の年末に食事をいっさい受け付けなくなった。腎臓の数値は計測不能な値まで上がり、もってあと1週間かと思われた。

 ところが、通院点滴の回数を毎日に増やし、ステロイド注射を行ったところみごとに復活。再び自分からフードを食べ、シンクの縁にも飛び乗るようになった。

 5月生まれのルイは、まもなく20歳になる。その日を迎えるのも夢ではないと思い始めた矢先の2025年2月に、再び食事をとらなくなった。足元もおぼつかなく、体温は34度の低体温と、かなり危険な状態となったので入院させ、24時間の静脈点滴を行うことになった。

 ルイは尿毒症が進み、意識も朦朧としはじめていた。だが面会に行くとしっかりと顔を上げ、力強い目つきで私を見た。食事は強制給餌(きょうせいきゅうじ)になったが吐き戻すこともなく、水も自分で飲んでいた。

「ルイ、つらいなら頑張らなくていいよ、もう十分生きたんだから」と私は声をかけ、頭をなでた。

 それでも、叔母のもとへ旅立つ時期はきっとルイが決めるのだろうと、そのとき私は思った。

【前の回】「自分が助かるために犠牲にはできない」 自身の肺がんを押して愛猫「ルイ」を思う

宮脇灯子
フリーランス編集ライター。出版社で料理書の編集に携わったのち、東京とパリの製菓学校でフランス菓子を学ぶ。現在は製菓やテーブルコーディネート、フラワーデザイン、ワインに関する記事の執筆、書籍の編集を手がける。東京都出身。成城大学文芸学部卒。
著書にsippo人気連載「猫はニャーとは鳴かない」を改題・加筆修正して一冊にまとめた『ハチワレ猫ぽんたと過ごした1114日』(河出書房新社)がある。

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この連載について
あぁ、猫よ! 忘れられないあの日のこと
猫と暮らす人なら誰しもが持っている愛猫とのとっておきのストーリー。その中から特に忘れられないエピソードを拾い上げ、そのできごとが起こった1日に焦点をあてながら、猫と、かかわる家族や周辺の人々とのドラマを描きます。
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