「ママのお菓子はおいしいのよ」(小林写函撮影)
「ママのお菓子はおいしいのよ」(小林写函撮影)

母の反対をよそに保護した野良猫 人懐っこい性格で家に溶け込み、ついにその日は来た

 郁子さんは「フィガロ」が女の子であることを確信した。放っておくと、妊娠してしまうかもしれない。

 郁子さんは意を決し、納戸を整理した。離婚時に持ち帰った荷物を放り込んだままにし、何度母に注意されても片付けなかった場所を1日で空にした。

(末尾に写真特集があります)

「もう、家に猫は迎えないでね」

BAN & MYU(バン アンド ミュー)」という屋号で、猫をモチーフにした焼き菓子をインターネットで販売している太尾郁子さん。屋号は、郁子さんが人生ではじめて一緒に暮らした猫たちの名前「バンディ」「ミュー」に由来する。30年ほど前、当時結婚していた郁子さんの家の勝手口に突然現れた、へその緒がついた状態のきょうだい猫だった。

 以来、外で暮らす猫たちを保護し、譲渡をしたり、家の猫にしたりしてきた。離婚をし、実家に戻ったときには4匹の元保護猫を連れていた。やがて父が亡くなり、多いときには6匹いた猫たちも入れ替わり、2019年に「ラブ」という名の猫が20歳で旅立つと、家には「ハチ」(推定14歳)と「ヒカル」(推定8歳)の2匹のオス猫だけになった。

「もう、家に猫は迎えないでね」

 郁子さんの母は、口癖のように言っていた。「かわいければかわいいほど、別れるときがつらいから」

 高齢の母の言うことはもっともで、郁子さんも、そのつもりだった。

「フィガロよ。私に会いに来たの?それともママのお菓子を食べに?」(小林写函撮影)

 2021年12月、仕事からの帰り道、郁子さんは自宅近所で見慣れない猫に出会った。

 長毛の白黒ハチワレ柄で、毛がひどく汚れている。不妊去勢手術済を示す耳カットはされていなかった。子猫ではないがまだ若いようで、あどけなさを残した顔をしていた。

 ご飯は、近くのタイ料理屋の仕込み場所でもらっていた。人間用に調理された肉類のようだった。

 どうせならキャットフードを食べさせたい。郁子さんは、外出時にドライフードをバッグにしのばせ、猫を誘導し、自宅の敷地内で与えるようになった。

 ディズニー映画の「ピノキオ」に登場する猫「フィガロ」に似ていることから、郁子さんは「フィガロ」と呼んだ。

保護しなければ!

 フィガロは人を警戒しない猫だった。気がつけば毎日、郁子さんはフィガロの姿を探すようになった。フィガロも、郁子さんの帰りを毎日待つようになった。郁子さんの姿を見ると、雨の日も風の日も雪の日も、一目散に駆け寄ってきた。

 保護をして家に連れて行きたい。しきりにからだを掻(か)いているので皮膚病かもしれず、獣医師にもみせたい。

 しかし、母を説得できるだろうか。

「フィガロという名はピノキオのアニメに出てくる猫の名前なの。見た目が私にそっくりなんですって」(小林写函撮影)

 悩みながら2カ月近く経ったとき、郁子さんの背中を押すできごと起こった。

 明らかに未去勢とわかるオス猫が、常にフィガロのそばにいるようになったからだ。このオス猫の登場により、郁子さんはフィガロが「女の子」であることを確信した。放っておくと、妊娠してしまうかもしれない。

 郁子さんは意を決し、納戸を整理した。離婚時に持ち帰った荷物を放り込んだままにし、何度母に注意されても片付けなかった場所を1日で空にした。

 こうしてフィガロの部屋を確保し、近所の保護猫ボランティから捕獲機を借り、中に鶏肉の唐揚げを仕掛けて置いたところ、あっけなくフィガロは捕まった。

 母には内緒で1晩、フィガロをガレージに置いた。フィガロは鳴いたり暴れたりすることなく、生きているのか心配になるほどおとなしかった。

自分の手でこの子を幸せにしたい

 翌朝、動物病院に連れて行き、不妊手術をした。獣医師の見立てでは7〜8歳とのことだった。検査の結果、猫エイズも猫白血病も陰性で、内臓疾患もなかったが、ひどい皮膚真菌症にかかっていた。

 真菌症は猫にも人にも伝染する。治るまでは隔離し、世話をする人間は手洗いと消毒を徹底しなければならない。

 郁子さんは納戸にケージを設置し、フィガロを入れた。

 猫が来たことに驚く母には「皮膚病が治って人に慣れるまで世話をするだけ。そうしたら引き取ってくれる人を探すから」と説明した。

「私、人見知りはしないの」(小林写函撮影)

 フィガロはケージに郁子さんが近づくと、かたまって威嚇した。だが郁子さんが、割り箸の先に歯ブラシを挟んでケージの柵の間からなでると、すぐに気持ちよさそうにした。真菌症の薬を混ぜたウェットフードをヘラにのせ、ケージの間から差し込むとペロリと食べた。

 1週間もすると、直接なでても動じなくなった。10日経つと、ゴロゴロ喉(のど)をならし、おなかを見せて転がり、頭を郁子さんにこすりつけてくるようになった。

 外で長く暮らしていた成猫を、屋内での生活に慣らすには時間と根気がいる。そう覚悟していたのに、人懐っこく素直な性格に郁子さんは驚いた。

「ハチ、この人たちねママのお菓子食べに来たみたいよ」(小林写函撮影)

 同時に、過酷な外の生活を生き抜いてきたフィガロの過去を想像すると胸が締め付けられた。人に渡すのではなく、自分の手でこの子を幸せにしたいと思うようになった。

 1カ月が経つ頃には真菌症はかなり改善されたので、ケージの扉を開け、納戸の中で自由に過ごさせるようにした。3カ月が経つと真菌症は完治し、毛も生え揃(そろ)いつやもよくなった。納戸から出して、郁子さんの部屋に入れた。

母が感懐したあの日

 それでも母は「うちの子にしましょう」とは言わなかった。「早く引き取ってくれる家を見つけてあげないと。どんどん大きくなっちゃうわね」と言い続けていた。フィガロが小柄で童顔なため、子猫だと思っているようだった。

 フィガロは、じゃらし棒が大好きで、じゃらし棒をふってくれる人なら、知らない大人でも子どもとでもよく遊んだ。だが母は、積極的にかわいがろうとはしなかった。よその家に行くのだから、情をかけてはいけないと思っているようだった。

 真正面から「うち子にしたい」と話せば、約束が違うと言われるだろう。自分が家を出なければならないかもしれない。

 郁子さんは、時がくるのを待った。

 フィガロは、郁子さんが帰宅すると「お帰りなさい!」とでも言うように足元に転がり、おなかを見せる。スマホで動画を見ていると、横にちょこんと並んで座り、一緒になって眺める。

 そんな様子を見ているうち、さすがの母もたまらなくなったのだろう。郁子さんの留守にはフィガロと遊んでいるらしいことが、うかがえるようになった。

 それから数カ月後のある日のことだった。郁子さんの前でじゃらし棒をふり、フィガロを遊ばせている母が言った。

「あなたは幸せな猫ちゃんね、おうちもあるし、ご飯だっていつでも食べられるのよ」

 こうしてフィガロは、郁子さんの家の10匹目の猫になった。

(次回は1月12日公開予定です)

【前の回】「帰ってくるまで元気でいてね」 愛する高齢猫、その時は近くとも日々は穏やかに

宮脇灯子
フリーランス編集ライター。出版社で料理書の編集に携わったのち、東京とパリの製菓学校でフランス菓子を学ぶ。現在は製菓やテーブルコーディネート、フラワーデザイン、ワインに関する記事の執筆、書籍の編集を手がける。東京都出身。成城大学文芸学部卒。
著書にsippo人気連載「猫はニャーとは鳴かない」を改題・加筆修正して一冊にまとめた『ハチワレ猫ぽんたと過ごした1114日』(河出書房新社)がある。

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この連載について
あぁ、猫よ! 忘れられないあの日のこと
猫と暮らす人なら誰しもが持っている愛猫とのとっておきのストーリー。その中から特に忘れられないエピソードを拾い上げ、そのできごとが起こった1日に焦点をあてながら、猫と、かかわる家族や周辺の人々とのドラマを描きます。
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