庭に来たガリガリの猫 「ごめんね、うちでは飼えないけど…」代わりに約束したこと
ある日突然、庭にやってきた猫は、薄汚れたガリガリのオトナ猫だった。紀衣(のりえ)さんは困った。夫の忘れ形見である家猫たちを順番に夫の元へ送り出すことだけで、もういっぱいいっぱいである。
でも、その哀れな痩せように見捨てることはできなかった。TNR(手術して外に戻し、面倒を見る)をするつもりでいったん保護した。だが、その猫はあまりに甘えんぼで気のいい猫だった。ワケアリの成猫に譲渡先を見つけるのは至難に思えたが、やるっきゃない。
見知らぬ猫が庭に居ついた
今年4月の昼間のことだった。在宅仕事をしていた紀衣さんの耳に、猫のうなり声が聞こえてきた。
玄関のドアを開けて声のする方を見ると、庭先で「オレちゃん」がうなっていた。オレちゃんは、TNR予定のノラであるが、非常に用心深くて捕獲に至っていない。その視線の先に、見たことのないキジ白のオス猫がいた。オレちゃんがうなっているのは、自分のエサ皿の前にそいつが陣取っているからだった。たまたま通りかかった外猫だろう。軽く追い払って、紀衣さんは仕事に戻った。
夕方、バイト先に出かける前、2階から庭を見下ろすと、あの猫がまだいた。昼間、正面からちょっと見ただけでは気づかなかったが、猫は、おなかがぺっちゃんこで、ガリガリに痩せていた。ああ、どれほど空腹だったのだろうと、胸を突かれた。かなり薄汚れてもいる。
家の中には、若くして亡くなった夫がタクシー乗務員時代に、あちこちで路頭に迷っているのを拾ってきた猫たちがいる。「1匹も手放さないでほしい」という言葉と共に16匹の猫を残して、闘病の末、夫が旅立ってから7年がたつ。
そのため、紀衣さんは、ダブルワークで猫の餌代を稼いでいる。夫が拾ってくるたびにあきれたものだったが、今ではどの猫も心からいとしいと思う。順番に見送り、16匹いた猫たちは7匹となった。ついこの前も老猫を見送ったばかりである。その子の最後の日々のために買っていた栄養価の高い缶詰がある。その缶を開け、4分の1ほどを皿に入れて、紀衣さんは庭に出た。猫はガツガツと、またたく間に食べた。残りも全部やった。
とりあえずの空腹は満たしてやった。バイトから帰ってきたらいなくなっていることだろう。
だが、バイトから帰ると、猫は庭にいた。
「おうちを見つけようね」
紀衣さんは猫を家に入れた。選択肢は3つあった。これ以上関わらないこと。またはうちの猫にしてやること。またはTNRをして、外で面倒を見ること。譲渡先を探すという4つめは除外した。この猫にすんなり譲渡先が見つかるなど考えられなかったし、抱え込むことはしたくなかった。
1つめは、できそうになかった。2つめもできない。年齢的にも「家の中は、今いる猫だけ」と固く決めている。餌場を離すなどの工夫をすれば、地域ぐるみで面倒を見ているオレちゃんたちと何とか共存してくれるかもしれないと思い、3つめの「いったん保護してTNR」を選んだのだった。
「ボクちん」と名づけたその猫は、とにかく気のいい猫だった。ケージから出してほしくて、かまってほしくて、鼻先をケージにぶつけて無数のすり傷を作った。出すと、ピタッと足元にすり寄った。もとは飼われていた子だったのだろうか。手術を済ませた頃、紀衣さんは思い直した。
この子は、人のそばで甘えて暮らすのをこんなに望んでいる。流れ者の成猫に譲渡先を見つけるのはなかなか困難かもしれないが、やってみよう。
そして、ボクちんに約束した。
「ごめんね、うちの子にはできないけど、きっといいおうちを見つけてあげるからね」
心当たりに声をかける前に、ふっと目に浮かんだ風景があった。パンがおいしくて最近通い始めた、近隣の町の山あいにある自家製酵母のパン屋さんである。そこには、迷い込んできたのを保護された「ルル」という若い黒猫がいた。室内飼いであるが、パン屋さん夫妻が庭作業をしている日中は、時折、草むらや竹やぶのある庭に出てひとり遊びをしている。ルルちゃんとボクちんが仲良く遊んでいる図が目に浮かんだ。
ダメもとで、パン屋さんに行ったときに、奥さんに顛末(てんまつ)を話し、「もう1匹飼いませんか」と言ってみた。「考えておきます」という返事のあと、「連れてきてみてください」と連絡をもらった。
「しあわせになるんだよ」
「ルルとの相性が悪くなければ」との受け入れ態勢をしてくれたパン屋さんの夫妻は、おおらかな猫好きである。パン作り修業をしていた京子さんと、有機農業を志していた裕司(ゆうじ)さん。妻が小さなパン屋さんを開くと、手が足りなくて裕司さんも一緒にパン作りをするようになった。町なかからここに店を移転したのは5年前。目の前は一面の田んぼで裏は竹林というのどかな里山である。
ルルは、まだ子猫のときに庭先に現れ、居ついたので家猫にしたのだという。夫妻が中庭で外作業をやっていると、近くでひとり遊びをしている。遊び相手がいたらルルも楽しいだろうな、と思っていたところだった。
連れてこられて不安そうなボクちんを抱きしめ、「ルルちゃんに仲良くしてもらうんだよ」と、紀衣さんは言い聞かせた。譲渡が決まってほしいという願いはもちろんあるが、一緒に暮らす3週間のうちに「可愛いやつ」という気持ちが日に日に強くなっていた。その夜、紀衣さんはさびしくて泣いた。
次の日に、パン屋さんから様子を知らせるラインメールが届いた。ケージの中のボクちんを見たルルは、シャーッと小さく威嚇して後ずさり、丸一日家出してしまったという。ボクちんのほうは、まるで敵意なしだったそうだ。
メールは毎日のように届き、「ケージから出せと夜も鳴き続ける」「出してやると、甘えてくる」「とにかく食いしん坊」「とにかくおしゃべり」「庭に出してみたら、ルルと追いかけっこをして遊んでいる」「押し入れを開けたら、2匹で背中をくっつけて寝ていた」と、あれよあれよの進展ぶりが続々届く。
紀衣さんが会いに行くと、目の前で、鼻をくっつけ合ったり、じゃれかかったり、ボクちんがルルをなめてやったりと、すっかり仲良くなっていた。
ボクちんは、パン屋さんの猫になった。新しい名は「ペーター」である。「アルプスの少女ハイジ」に登場する優しい少年ペーターからとった名だ。
町なかで放浪していただろうペーターにとって、新しい家族とのお気楽里山暮らしが楽しいのはいうまでもない。たいていは室内にいるが、ときたま出る庭の中は安全だし、目の届くところで遊んでいる。ルルと並んで、空を見上げ、風の音を聴く。小枝や葉っぱを意気揚々とくわえて家に持ち帰る。
ここにペーターを連れてきたとき、紀衣さんはさびしさのあまり、「私には保護活動は向いてない。ダメだったら返してもらってかまわない」とさえ思っていた。今ではこう思う。「最高のおうちにもらっていただけた」
裕司さんと京子さんも口をそろえる。
「ペーターは、ほんとにいい子です。高い声でよくしゃべり、あとをくっついてきます。ごみ箱をあさる、店に入りたがるなど困ったこともあるにはありますが、それ以上に可愛すぎるのです! ルルもすごく変わりました。これまでは、『かまってちゃん』で、ひとり遊びもどことなくつまらなそうだったのが、今は毎日とっても生き生きと楽しそうで」
ペーターは、どうやらルルよりちょっと年上の2~3歳くらいの若猫のようだ。仲よし兄妹となった2匹のマイブームは、「待ち伏せ」ごっこ。いろんなところで待ち伏せては相手に飛びかかり、じゃれ合う。さんざん遊んだあとは、背中合わせで眠る。
紀衣さんにしてみれば、おいしいパンを買いに行くたびに、ペーターのしあわせそうな姿を見られるのがなによりうれしい。
ついこの前のこと。パン屋さんに行ったら、ペーターが庭でくつろいでいた。近寄ると、京子さんの足元に逃げ込む。裕司さんが「おい、お前のいのちの恩人だぞ」とたしなめる。紀衣さんが「ペーター」と声を掛けたら、その声でハッと気づいたらしく、やってきて足元で転がった。
「そのうち私と過ごした日々の記憶はペーターから消えるでしょう。それでいいんです。でも、私にとって、ペーターと過ごした3週間は、宝物のような時間でした。がんばって生きてきてくれてありがとう、うちにたどりついてくれてありがとうの気持ちでいっぱいです。これまでさんざんつらい思いやひもじい思いをしたのだから、うんと可愛がられて楽しく暮らしてほしい」
あのとき、この猫には譲渡は無理だとあきらめずに一歩踏み出してよかった。空の上の夫は「よかったな」と笑ってくれている気がする。
今日も、京子さんから、2匹がピトッとくっついている写真が何枚も送られてきた。夏が過ぎて涼しくなったら、抱き合って眠る写真が見られそうだ。
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