犬との記憶は薄れてしまうものなのか 別れから10年以上経った私のケース
先代犬の富士丸、いまは保護犬の大吉と福助と暮らすライターの穴澤 賢さんが、犬との暮らしで悩んだ「しつけ」「いたずら」「コミュニケーション」など、実際の経験から学んできた“教訓”をお届けしていきます。
あの「絶望」から復活して
わざわざ書くことでもないが、愛犬との別れはとても辛い。悲しいことに、それはいつの日か必ず訪れる。頭のどこかでは覚悟していたつもりでも、いざそうなると予想をはるかに超えてくる。喪失感に体の一部を失ったような感覚にすらなる。
富士丸の場合、まったく予測していない日常の中で、しかも彼のために山に移住を決め、いざ契約するという前夜、数時間家を空けて帰宅すると息絶えていた。あまりに突然すぎたため現実が受け入れられず、私は精神的にも肉体的にも見事に壊れてしまった。そのあたりの話は「またね、富士丸。」(小学館文庫)に書いたので割愛するが、7年半一緒に暮らした富士丸がいなくなっただけで、私の目に映る世界がまったく違ったものになってしまった。
それから2年半の空白を経て、大吉を迎え、後に福助が加わり現在にいたるのだが、今回は、また犬と暮らすうえでの葛藤と、不安に感じていたことがどうなったかを書いてみたい。
あのときの葛藤と不安
まず、大吉を迎えるにあたって一番悩んだのは「またあんな思いをしたくない」という恐れだった。でも、また犬と暮らしたい。けど……という思いがぐるぐる頭を回り、吐きそうになるほど悩んだ。これは比喩ではなく、本当に吐きそうになった(酒は一滴も飲まず)。これまで生きてきて吐きそうなほど悩んだことなんてなかったのに、だ。
もうひとつの心配というか気がかりだったのが、新たな犬を迎えると富士丸への愛情が薄らいでしまうのではないか、忘れてしまうのではないか、という罪悪感にも近いものだった。
前者のハードルについては、子犬だった大吉が楽々と越えてきたのと、なぜか断りづらい状況が重なり、家に連れて帰ったその日に「ま、いいや」と悩んだことが馬鹿馬鹿しくなったのを覚えている。
後者の不安については、しばらく心のどこかにあった。しかし、時が経つにつれ富士丸への愛情や記憶が薄まらないことを実感していった。薄まるどころか、心のどこかにどかっと腰を落ち着ける場所を見つけ、いつもそこにドンといるようになった。
そのいっぽうで、大吉への愛情は増すばかりで、ちゃんと別の新たな場所にしっかり定着していったという感じだ。福助についても同じだった。それは大吉が11歳、福助が8歳になった今も変わらない。そういうわけで、愛情が薄れるという面では杞憂(きゆう)に終わる。
久々に歩いてみると
では、記憶はどうだろう。私は物忘れが激しい方なので、1年前に友人に言ったことすら覚えていないのはよくあるし、古くなればなるほど加速度的に忘れ去り、思い出せないことが増える。
ついこの前、用事があって近くへ行ったついでに、初台から幡ヶ谷にある玉川上水旧水路緑道を歩いてみた。初台は富士丸と暮らしていたところで、その緑道は毎朝毎晩散歩していた道だ。久々に歩いてみると、ところどころは変わっていたが、ほとんど昔と変わらない景色だった。両脇は桜並木になっていて、毎年春には桜が満開になり、あちこち匂いを嗅ぐ富士丸の鼻に、花びらが付いているのを見て笑ったもんだった。
他にも、いつもあいつが必ずオシッコをかける木や、いくつかののウンチポイント、水道の蛇口をひねると流れる水を直でガブガブ飲んでいたことなど、色々なことをちゃんと覚えていた。
意外と忘れない
富士丸がいなくなったのは2009年だから、もう13年も前のことである。それだけ経っても忘れないとは、私としては珍しいことだ。どうやら、彼に関することは別回路に記録されているらしい。30年後は分からないが、たぶん死ぬまで忘れないんだと思う。
だからもし、愛犬との別れを経験し、私と同じような不安がある人に言っておきたい。大丈夫、忘れないから。それは、忘れっぽい私が保証する。
もうひとつ、「もうあんな思いはしたくない」ということについて。たしかにいずれ大吉や福助もいなくなる日が来る。そうなると、たぶん、いや、確実に辛いと思う。でも、迎えなけれ良かったとは絶対思わない。現在進行系で彼らと過ごしている日々はかけがえのない時間だと思っている。そして、彼らのことも死ぬまで忘れないだろう。感じ方は人それぞれだと思うが、私の場合はそんな感じだ。
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