「音音(ネネ)です。名前の由来は次回のお話の中で」(小林写函撮影)
「音音(ネネ)です。名前の由来は次回のお話の中で」(小林写函撮影)

天から与えられたプレゼント 薄汚れた白猫は美しく、音のない世界を生きていた

 東京郊外にある動物病院で、40代と思われる夫婦がキャリーバッグを抱えて座っていた。

 中には青い目をしたきれいな白い猫。洗濯ネットに入れられ、身動きができないので不満そうだ。

「動物病院が大嫌いなんですよ。診察台の上で抵抗するから、洗濯ネットは必須です。口を広げて床に置けば勝手に入ってくれて、あとは抱えてキャリーバッグに入れるだけなので、連れてくるのは楽なんですけどね」

 と、ご主人の潤さんが笑う。今日は、年1回のワクチン接種のために来院したという。

 まるでつきたてのお餅のように白く、ふんわりとした毛なみの猫の名前は「音音」と書いて「ネネ」と読むそうだ。潤さんが勤務先の近くで保護したのは、今から12年前のことになる。

(末尾に写真特集があります)

薄汚れた子猫との出会い

 建築関係の仕事をしている潤さんは、誕生日を翌日に控えた2010年5月のある日、定期健康診断を受けるため、勤務先近くの診療所に出かけた。

 午前9時前で、診療所のある商店街は人通りが少なかった。目的地まであと50mという場所にある仏壇屋の前を通ったとき、「ミャーミャー」という鳴き声が聞こえ、足を止めた。

 見ると、手のひらにのる大きさの痩せた子猫が、店先のプランターの間にうずくまっていた。

 白い猫のようだが汚れがひどく、野良の子であることは間違いなさそうだった。ホームレスらしき男性がちょっかいを出していたが、潤さんはそのまま通り過ぎた。

「手を出したら大変なことになる」と、潤さんは思った。子どもの頃から動物好きで、犬のほか、たくさんの鳥を飼っていた経験がある。過去の動物たちとのつきあいの中で、あと先を考えず、かわいい、かわいそうという感情だけで衝動的に動物は拾うものではないことを、学んでいた。

ここでしばらく待っていて

 それなのに診療所に入り、受付で名前を書いていても、子猫のことが頭を離れなかった。

 結局、受付けだけ済ませると潤さんは外に出て、子猫の元へ戻った。

 ホームレスの姿はなく、代わりに2羽のカラスが、頭上から虎視眈々と子猫を狙っていた。

 カラスがまさに獲物に飛びかかろうとした瞬間、潤さんは子猫を両手ですくい上げた。

 そのまま、会社の車が停めてある駐車場まで子猫を運んだ。ライトバンの鍵を開け、積んであったポリバケツに入れ、蓋を少しずらして置いた。

「ここでしばらく待ってるんだよ」

 そう子猫に声をかけ、潤さんは診療所に戻った。

「お母さんさ、戸棚にメレンゲ隠したでしょ」(小林写函撮影)

 約1時間後、健康診断を終えた潤さんが車に戻ると、ポリバケツの蓋が下に落ちており、中に子猫の姿はなかった。焦って車内を探し回ると、子猫は運転席のシートにしがみつくようにして眠りこけていた。

 近くで見ると、顔中目やにだらけで、一部毛が剥げ落ちている。

 潤さんは子どもの頃、飼っていた文鳥が、ふと目を離したすきに外の猫の餌食になるのを目の当たりにしたことがあった。だから、動物の中でも猫に対してだけは苦手意識があった。

 だが、そんな意識はいつの間にか吹き飛んでいた。

 子猫は「あなたが面倒をみなさい」と、天から与えられた誕生日プレゼントかもしれないと、潤さんは感じた。

拾ったもののどうするか

 ただ問題があった。当時婚約者として一緒に暮らしていた美夏さんが、動物が苦手だったのだ。

 潤さんは子猫を会社に連れて行き、同僚たちに事情を話し、美夏さんを説得するまでの期間、社内で面倒をみさせてもらうことにした。動物好きな社員が多いアットホームな職場で、寝床となる段ボールを用意してくれたり、猫を飼っている人は世話の仕方を教えてくれた。

「このお家は暖かくて落ち着くのよ」(小林写函撮影)

「子猫を保護したんだけど」と潤さんから連絡をもらったとき、美夏さんは即答した。

「無理無理、うちでは飼えないよ」

 美夏さんはこれまで動物を飼ったことがなかった。飼育の自信がないし、家に動物がいることが想像できなかった。結婚後は共働きになるし、それでちゃんと面倒がみられるのか、日中、誰もいない家で猫を留守番させることも気になった。

 それに野良猫は無表情で、少し怖いと感じていた。しかも美夏さんは花粉症のほかいくつかアレルギーを持っているため、体質面での心配もあった。

一時預かりのつもりで

 それでも、潤さんの気持ちを無下にはできなかった美夏さんは、引き取ってくれる家族を探すことを条件に、子猫を家に連れてくることを受け入れた。

 数日後、潤さんは小型のケージと一緒に子猫を連れて帰宅した。保護した直後に見せてもらった写真に比べると、毛も白く目やにもきれいになっていた。両眼ともガラス玉のように透き通った青色だ。世に言う「美猫」なのだろうが、美夏さんには、その美しさがちょっと冷たく感じられ、近寄りがたい印象を与えた。

「台所のマットの上がお気に入りなの」(小林写函撮影)

 子猫はすぐに家に慣れた。潤さんが用意した猫トイレで問題なく排泄をし、子猫用のドライフードもよく食べた。あたりをぴょんぴょん跳び回り、潤さんがお風呂から出てくるのを、扉の前にじっと座り、顔を上げて待っていたりする。

 見た目とは違う無邪気な様子に、美夏さんも心が動かされないことはなかった。だが、信頼できる友人がぜひ引き取りたいと言ってくれたので、譲渡はほぼ決まりかけていた。

耳が聞こえない?

 ただ一つ、気になることがあった。それは子猫が大きな物音に反応しないことだった。掃除機をかけていても動じず、逃げるどころかホースにじゃれついてくる。

 耳が聞こえていないのではないか。

 インターネットで調べると、毛が白く両目ともに青い猫は、高い確率で聴覚障害を持って生まれてくるという。遺伝子の関係らしい。

「お父さん、お母さんとばかり仲良くしないでよ」(小林写函撮影)

 ちょうど譲渡前に健康診断をする予定だった。子猫が家に来て2週間が経った頃、潤さんは近所の動物病院に子猫を連れて行った。

 獣医師の診断は、想像していた通りだった。

 先天性なので、薬や手術によって治ることはない。それを知っても潤さんはあまりショックを受けなかった。

 それより、子猫が生後約1カ月未満の女の子だと知って嬉しかった。てっきり男の子だと思っていたので、娘ができたような気がしたからだ。

 次回、後編に続きます。

(次回は6月9日公開予定です)

【前の回】情が移り「預かり」から「家族」に TNRで捕獲した元野良猫たちの存在に支えられる日々

宮脇灯子
フリーランス編集ライター。出版社で料理書の編集に携わったのち、東京とパリの製菓学校でフランス菓子を学ぶ。現在は製菓やテーブルコーディネート、フラワーデザイン、ワインに関する記事の執筆、書籍の編集を手がける。東京都出身。成城大学文芸学部卒。
著書にsippo人気連載「猫はニャーとは鳴かない」を改題・加筆修正して一冊にまとめた『ハチワレ猫ぽんたと過ごした1114日』(河出書房新社)がある。

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この連載について
動物病院の待合室から
犬や猫の飼い主にとって、身近な存在である動物病院。その動物病院の待合室を舞台に、そこに集う獣医師や動物看護師、ペットとその飼い主のストーリーをつづります。
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