丸森キャッツに会いにゆく ポップな猫碑81基あちこちに
丸森キャッツに、会いにゆこう。
宮城県の南の端、山あいの町で江戸後期から昭和にかけて、猫の姿を刻んだ石碑や像がたくさんつくられた。お寺や神社に置かれたり、道端に並ぶ石碑にまぎれていたり。丸森町で見つかったのは81基。日本各地にある猫碑の半分以上を占めるという。
案内役は、村田町歴史みらい館の専門員、石黒伸一朗さん(60)。10年ほど前からコツコツ県南を調査に歩き、誰も気にとめなかった猫碑の存在に、光を当てた立役者だ。
町中心部、百々石(どどいし)公園の入り口にある細内観音堂。そのそばに石黒さんお気に入りの1匹がいる。湯殿山参りなどの碑が並ぶ中、くるんと尻尾を立てた丸顔の猫。約70センチの花崗岩(かこうがん)が浮き彫りにされ、「天保五年」(1834年)とある。とても180年前と思えない、ポップな造形だ。
句も刻まれていた。「今朝のゆき いきふじ花の かたみかな」。雪の朝「ふじ」という猫が逝った、と読める。
左右の向きは違えどよく似た猫が、2キロほど離れた福一満虚空蔵堂の境内にいた。同じ石工の作かもしれない。「天保六年」「横町 伊藤徳次郎」とあった。
町のあちこちに個性あふれる石の猫がいる。寝そべったり、跳ねたり、キツネ顔だったり、首輪をしていたり。猫をかたどった石像は風化が進み、頭が欠けるなどしていたましい。
最古は1810年、新しいものは1933年。紀年銘や建主の名が見当たらない碑も少なくない。
なぜ、丸森に猫の碑が多いのか。石黒さんは最初、養蚕農家に伝わる猫神信仰の表れと考えた。
丸森は昭和まで養蚕が盛んで、カイコや繭をネズミから守るため、農家は猫を飼っていた。養蚕の神様として猫をまつる文化は日本各地にある。
だが調べるにつれ「猫神様」よりも、飼い猫供養の碑が多いことがわかってきた。たとえば西円寺境内にある昭和5(1930)年のトラ縞(じま)の猫碑。「旅館を経営していた祖母がかわいがっていた猫が死に、建てたそうな」と孫の大槻英雄さん(85)。そんな証言もいくつか得られたという。
お金をかけて石工に頼んでまで、愛猫の死を悼む。「当時の人々と動物の距離の近さがうかがえますね」と石黒さん。だとしても、この風習が丸森に集中して広がった理由は、よくわからにゃいという。
折しも空前の猫ブーム。インスタやユーチューブのない時代から、丸森人は先取りしていたのだ。
◇
2012年、石黒さんが町の文化財資料としてつくった冊子が話題を呼び、追加調査をして昨年、「丸森町の猫碑めぐり」(発行・丸森町文化財友の会)を出した。
観光客向けに猫碑ツアーが組まれ、菓子店が猫神様のどら焼きを売り出すなど、町の「猫推し」も盛り上がる。丸森町は猫の額よりはるかに広く、場所もわかりにくい。観光案内所でマップを受け取り、説明を聞いてから、車などでの探訪をおすすめしたい。
あっ。道をとっとっと、茶毛の1匹が横切った。おいお前、どこぞの碑から抜けだしてきたのかい?
明治時代の旗に猫の足跡
養蚕にまつわる猫神様もいる。
丸森町西端の耕野地区、阿武隈川から山道を入った茗茄沢不動堂は「聖地」の一つ。ふだんはカギがかかったお堂の中に、30体以上の招き猫が黙って並び、背筋がひんやりする。
先祖がお堂を建てたという曳地東広(かつひろ)さん(83)によれば、いつしか養蚕農家が願をかけるようになり、招き猫を1体借りてゆき、繭がたくさんできれば2体にして戻す「倍返し」が、ならわしだったという。
阿武隈急行あぶくま駅近くにある三峰神社の所に以前は「猫神社」があった。「奉獻猫神社」などと書かれた明治時代の大きな旗が保存されている。よく見ると字のわきに猫の足跡。墨書の最中、いたずら猫が上を歩いたのだろうか。
(石橋英昭)
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