招き猫のルーツを探る ささやかな庶民の願いこめ、化け続ける

大小約4千体の白い猫たちが、静かに手招きをしている。東京・世田谷の豪徳寺。一角に、願いごとがかなった人が奉納した招き猫が並ぶ。
外国人観光客らが撮影に訪れ、平日でも人の姿は絶えない。「井伊家と寺を、そして人の縁を猫さんが結びつけてくれました。ありがたいことです」(同寺)
江戸時代、彦根藩2代藩主の井伊直孝が、通りかかった寺の門前で猫に手招きされ、雷雨から救われたという伝説がもとになっている。
日本人に長く親しまれてきた招き猫。愛好家が集う場をつくろうと1993年、「日本招猫倶楽部(まねきねこくらぶ)」が発足した。設立者で世話役の板東寛司(66)、荒川千尋(57)夫妻は、招き猫の収集と歴史の研究を続けてきた。
置物としての招き猫のルーツには諸説あるが、倶楽部は江戸後期に浅草周辺で作られた今戸焼の「丸〆(まるしめ)猫」とみる。老婆の夢の中に現れた猫のお告げで土焼きの像を作ったら良いことが続いたなどの話が評判となり、江戸の庶民がささやかな幸せを求めたことがきっかけだったようだ。
丸〆猫は、背面の円の中に「〆」の文字が入ったマークが特徴。円満吉祥、「お金や福をひとりじめ」といった意味が込められたとされる。歌川広重の1852(嘉永5)年の作「浄るり町繁花の図」にも丸〆猫が描かれている。
江戸の庶民は流行に熱しやすく冷めやすい。なのに招き猫が廃れなかったのは、「猫が身近な動物であったこと。でも決して人の意のままにならず、神秘的な力を感じさせるからでは」と、板東さんは分析する。
郷土玩具として各地で手作りされるようになり、需要増から明治30年代に愛知県の瀬戸で工業生産が始まる。当時の招き猫は、生きた猫に近いスリムな体形だった。
一躍メジャーな存在に押し上げたのは昭和20年代に同県で誕生した常滑焼の招き猫。ずんぐりした2頭身で大きな小判を抱え、愛らしい姿が人気を集めた。高度経済成長の波にも乗って全国に広がり、「常滑系」として各地で同じ形のものが作られていく。
福助などと違い、手さえ挙げていれば招き猫に見える。気まぐれな猫同様、しばりのないことが多様なデザインを可能にした。「時代を映す鏡のごとく次々と姿を変えていった」と荒川さんはいう。

量産化は招き猫に別の変化ももたらした、と板東さんは指摘する。江戸時代以来、自分や家族の幸運を願うパーソナルな存在だったものが、「人を呼ぶ」「客に幸運をもたらす」という売り文句とともに店舗や公共の場などオープンな存在へと拡大した。
右手挙げはお金を招く、左手挙げは人を招く、白は開運招福、黄は金運繁栄などの意味も付加され、バリエーションはさらに増していく。
日本招猫倶楽部は9月29日を「来る福招き猫の日」に制定。瀬戸市では1996年から毎年「来る福招き猫まつりin瀬戸」が開かれ、近年は2日間で約8万人が集まる。2005年には同市に板東さん夫妻のコレクションを展示する「招き猫ミュージアム」も開館した。運営する地元の陶磁器会社「中外陶園」には、焼き物の町を再び元気にしたいとの思いが強い。

まつりでは招き猫作家の100人展が開催され、毎年新たな作品が誕生する。同社企画広報の井上美香さん(56)は、「物作りの町に生まれた子どもたちに、物を作る面白さを見て感じて欲しい」という。常滑市も、巨大な招き猫オブジェ「とこにゃん」や私道沿いの壁面にユニークな作品を並べた「招き猫通り」で人を招く。招き猫は今も化け続けている。
(中島秀憲)
江戸時代後期 東京・浅草で今戸焼の招き猫「丸〆猫」が流行
1852年 歌川広重の「浄るり町繁花の図」に招き猫が描かれる
明治30年代 愛知県・瀬戸で日本初の招き猫(磁器製)の工業生産が始まる
大正時代 石川県・九谷焼の招き猫が輸出される
昭和20年代 小判を抱えた「常滑系」が誕生。高度経済成長に乗って全国に広まる
1993年 招き猫愛好団体「日本招猫倶楽部」設立
94年 岡山市に「招き猫美術館」開館
95年 日本招猫倶楽部が9月29日を「来る福招き猫の日」に制定。
三重県伊勢市で「来る福招き猫まつり」始まる
96年 愛知県瀬戸市で「来る福招き猫まつりin瀬戸」が始まる。
98年から長崎県島原市でも開催
2005年 瀬戸市に「招き猫ミュージアム」開館
06年 滋賀県彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」誕生。
井伊家由来の招き猫がモデル
愛知県常滑市に巨大招き猫「とこにゃん」ができる
08年 山梨県の富士急ハイランドに金箔張りで
高さ10メートルの夫婦招き猫登場
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