クリニックのおっとりした雑種犬 患者の心をそっと癒やす日々「ほろっとする」
渋谷からほど近いビルの中にある精神科クリニック。3年半前にオープンしたこのクリニックで、スタッフと共に通勤してくる犬が患者さんたちを迎え、皆に愛されているという。どんなふうに過ごしているのか、会いにいってみた。
灰色の大きな犬
夜6時頃に訪れると、待合室に数名の患者さんが座っていた。とても静かで、犬がいる気配はない。すると、受付にいた女性が教えてくれた。
「さっき雷が鳴ったので、まだショックから立ち直れないんです」
ここですよ、と言われ受付のカウンターをのぞくと、灰色の大きな犬がテーブルの下に寝そべっていた。ちょっと眠そうな顔をしている。
しばらくして女性が受付のカウンター横にあるドアを開けると、犬はひょこひょこと待合室のほうに出ていき、ソファに座る女性患者に近づき、寄り添うように体をくっつけた。
腰のあたりを撫でてもらうと、嬉しそうに目を細めた…。
もともと迷子の犬だった
犬の名は「ふく」。もうすぐ9歳(推定)になるオスの雑種犬だ。クリニックで医療事務をする郡佳子さんの飼い犬で、2年半前から週3日、午後だけ同伴出勤をしている。受付や待合室で過ごしながら、時には診察室に入ることもある。セラピードッグを目指し修行中なのだという。
ふくがクリニックに来るようになったいきさつを、郡さんが説明してくれた。
「以前、私は別の精神科クリニックで働いていたのですが、先代のろくという飼い犬がそこでセラピー犬として7年間、患者さんと触れあってきました。ろくは3年半前に14歳半で亡くなり、そのクリニックも閉院。その後、別の精神科クリニックで仕事をしていましたが、残念ながらそこは建物自体が“動物NG”だったので同伴出勤はできず……『いつかまた愛犬と共に仕事がしたいな』とずっと思っていました」
そんな時、思いがけず、よい知らせが舞い込んだ。
「こちらのクリニックが開業する時に、以前より交流のあった院長先生から“一緒に働きませんか?ふくちゃんもいずれ連れてきていいように準備しているので”とお声掛けいただいたんです」
郡さんがふくを家族に迎えたのは8年前。決してセラピードッグにするために迎えたわけではない。民家に迷い込み、飼い主が現れなかったために家族を探していた保護主のブログ(写真)をたまたま見て、「この子、放っておけない」と思い、先代ろくと一緒にお見合いにいったのだという。
「じつは先代ろくが10歳になった時に『もし、ろくがいなくなったら自分のメンタルが不安……元気なうちにもう1匹迎えたい』と思ったんです。そんな時に出会ってぴんときたのがふくでした。年が離れていたので、ろくはふくを可愛い孫のように見守る感じでした。ふくは家に来た時すでに1歳でしたが、その頃からおっとり、べったり、まったり(笑)。撫でてもらうのが大好きで」
ゆるキャラでクリニックでも皆に可愛いがられ、それがふくにとっても喜びだという。
もちろん、初めてクリニックに来る人には、アレルギーの有無を確認し、犬が苦手でないかを聞いている。しかし抵抗を感じる人は少なく、親しみを覚えるケースが多いそうだ。
診察室に犬が入ると…
院長にも、ふくについて話を聞いてみた。
「いつも診察後に僕がおやつをあげるから、おやつをくれるおじさんと思っているかな」
ふくをなでる院長は、長年、ペットと人の関係性を考える人間動物関係学を研究してきた。しかし文献などには机上の空論も多かった、という。
「家庭にいるペットとクリニックにいるペットでは意味合いが違いますが、今、治療の一環でふくに助けてもらい、ようやく(犬との関係について)手応えをつかみつつあります。まだ途中ですが、犬がどんな時に人に影響を与えるか、どういう時に助けてもらうのが効果的か、方法論を見つけたいと思っています。犬が病院にいることも特別じゃない、そんな社会も目指したいのです」
クリニックには様々な患者が訪れるが、必要に応じてふくを診察室に招くそうだ。
「例えば話を聞く中で“犬を飼っていた”“犬が好き”という言葉が患者さんから出た時に、受付のふくを奥から診察室に呼ぶと、とても驚いて、それを機に話しだすことがあります。パワハラを受けて落ち込んでいる人が、ふくを見たとたんに感情を露わにして、泣きだすこともありますよ」
中には、院長とは話さないのに、ふくを1時間以上なでて帰っていく人もいるという。
「人には心を開けなくても、犬には心を開くことができる。そのことを実感しています。不登校で引きこもりの子が、犬に会いにいこうというのがきっかけになり、カウンセリングにきちんと通ってくれたケースもある。おとなでもこどもでも、次に来た時にふくが覚えてくれていると自信に繫がるんです。それは、自信を持ってくださいという励ましの言葉よりずっと大きいと思います」
こうした治療の手応えは、ふくの「キャラクターによるところも大きい」と院長は話す。穏やかで、吠えず、嚙まず、人を舐めない。椅子に座りながら撫でるのにもいい大きさで、なによりも犬自身、人に触られるのが好き。院長もふくに救われているようだ。
「郡さんとふくは強い信頼関係で結ばれている。彼女の“犬への思い”が今のふくを生み出したのだろうな。僕はここで飼い主の愛情についても学ばせてもらいましたよ」
ペットロスは当たり前の反応
郡さんは、先代のろくが亡くなる前にペットロスになるのをおそれてふくを迎えたという話をしていたが、クリニックには、実際にペットを亡くして不眠や情緒不安定などになり、診察を受ける人も訪れるという。
このペットロスについて、「なくてはならないこと」と院長は話す。
「愛していたものがいなくなると、私たちの心や身体には喪失反応と呼ばれる影響が現れます。親やきょうだい、配偶者や子ども、友人や大切なもの、自身の体の一部などを失っても、ペットを失っても、こうした悲しみへの反応が出ます。時間をかけて自分の中で処理していきますが、人から理解されなかったり、悲しみをうまく表現できなかったり、他のストレスが重なってこじれることもあります」
「そうした喪失反応を一緒に考える場をクリニックで提供していますが、どこの(精神科)クリニックでも普通に診るべき症状のひとつだと思っています」
ふくファンクラブノート
帰り際、郡さんが、一冊のノートを見せてくれた。表紙には、「ふくファンクラブノート」と記してある。旅館に置いてある旅ノートのように、クリニックを訪れた患者さんが感想を自由に書いたもので、誰でも読めるようになっている。
めくると、ふくへのラブレターのような言葉が綴られていた……。
〈ふっくふくの毛皮と澄んだ目。つい我を忘れてすりすりしてしまいます。こんなに撫でさせてくれるわんちゃんは初めて。仕事で失敗した日、ずっと抱きついちゃってごめんね……〉
〈自分不信、世界不信の時でもフクちゃんは可愛い。天使だあ~〉
〈本日初めて来院しましたが、可愛いい大きなフクに癒やされました。マッサージをしてみたら、目を細めて喜んでくれたようで良かったです〉
〈体に気を付けてご出勤願います〉
〈ちょっとパニックになってフク君に抱きついちゃいました。人間だったら変質者扱いされるところ、フク君は嫌がりもせず受け止めてくれた。ごめんね…ありがとう〉
〈私はフクちゃんのような人になりたいです。フクちゃんへのリスペクトがとまりません!〉
〈私が来たらすぐに気づいてきてくれた!撫でてたらいきなり寝転がってくれてうれしかった〉
〈フクちゃんの目が特に可愛らしい。ちょっぴり悲しそうな目で見つめられるとほろっとしてしまう〉
〈ペットロスで通院しはじめた私は、ふくちゃんのモフモフにとても癒やされました。ふくちゃんの優しさに自然に笑顔になりました。また来週、よろしくね……〉
〈ふくちゃんがいると、家に帰りたくなくなる〉
〈フクくん、まるで自分が運命的に保護されて今があるとわかっているみたい〉
〈今日すっとそばにいてくれてありがとう、これからも、ゆるゆるでいてね〉
どのページからも温かな交流と、目に見えない絆が伝わってくるようだ。
きっとこれからものんびりとマイペースで、皆を癒やし愛されていくのだろう。
診療時間が終わり、そろそろふくも家に戻る時間だ。おつかれさま。
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