動物看護師の病からの復帰支えた犬ががんに 力振り絞り最期にくれた贈り物
前回に続き、動物看護師の小原洋子さんの体験談です。ある時、愛犬の担当動物看護師に、小原さんを指名し始めた飼い主がいました。当時、小原さんは持病で出勤が不安定だったにもかかわらず、指名を続けた理由とは?
飼い主からの突然の指名に戸惑う
メスのミニチュア・ダックスフントの「夢」。椎間板(ついかんばん)ヘルニアを発症して以来、痛みを和らげる処置を受けるため、小原洋子さんが働くひょうたん山動物医療センターに通ってくる。
処置では院長と、その補助を行う動物看護師がペアで診察室に入る。どの動物看護師になるかは、その時々で替わる形だ。
ところがある日。飼い主であるお母さんが電話で、突然小原さんを指名してきたのだ。
これを聞いた時、小原さんはキョトンとしてしまった。
「誰が入っても一緒やん……」
当日やって来たお母さんの言葉に、さらに驚かされる。
「小原さんが入った日、2回連続で、夢が階段を駆け上がったんです」
「ええーっ。というかお母さん、腰に悪いから階段を駆け上がらせないでくださいっ!」
初めは、たまたま小原さんの担当日に調子がよかったことから、げんかつぎの指名かとも思った。だが、その後も「やっぱり小原さんがいい」と、確固たる信頼を寄せてくれる。ほぼ無意識にしていた、こんな行動も指摘した。
「私、いつも患部にてのひらを、そっと乗せていたらしいんです。『痛いの飛んでいけ』って、手当てしているみたいに」
普段、何げなくこなしている業務。だが、飼い主はじつによく見ているのだと知り、目を見開かされる思いだった。
「飼い主さんはそれだけわが子のことを大事に思っている。その大切な子を預けてくださり、病院で処置をさせてもらっていることを忘れてはいけないと思いました」
前回の話でも書いたが、この頃小原さんは膠原病(こうげんびょう)を患っていた。その日の体調によって出勤できたりできなかったり。仕事も続けられないだろうと半ばあきらめていた。
お母さんから指名されても、当日になると体が動かず、「ごめんなさい」とお断りの連絡をすることも何度もあったという。だが、「来るのを待っています」と、お母さんは揺らがない。「夢は小原さんじゃないとあかんねんからね」と、冗談めかして励ましてくれる。
「その言葉に、『やっぱりまだ仕事を辞めたくない』と、病気に負けそうになる自分を支えてもらいました」
復帰を待ってくれる人と犬がいる。そのことがどれほど心を強くしたかわからない。
夢がくれた最後のあいさつ
ある時を境に夢は体調を崩していった。血尿が出たり、便が出にくいなどの症状が見られたため、検査をすると直腸内に腫瘍(しゅよう)ができていた。腫瘍は大きく、手術で取り除けるレベルではなかった。
「がんとわかってからは早くて、1カ月ほどでどんどん弱っていきました」
通院による点滴治療が始まった。
がんになる前の夢は元気いっぱい。病院のスタッフに対しては怒りん坊だったという。小原さんは、そんな夢の怒った顔が、かわいくて大好きだった。だが指名を受け、ひんぱんに会うようになってからは、さすがに怒ることはなくなっていた。
ある日、点滴を終えた帰り際。
「いつもどおり、『じゃあね、バイバイ』って、ポンポンってなでようとしたら、最後の最後に怒ったんです。日に日に元気が薄れていく中でも、『バウッ!』って、昔の元気だった姿を見せてくれたのかな。そして、『これは夢ちゃんからのあいさつで、本当にお別れが近いのかな』と感じました」
予感どおり、これが小原さんが夢と会った最後となった。3日後、夢は自宅で息を引き取った。
仕事への復帰を支え、飼い主にとってかけがえのないわが子にかかわる責任感を教えてくれた夢が、残された力を振り絞って残してくれた、かけがえのない贈り物だった。
院長の提案で手話講座がスタート
さて、夢との別れを経験したちょうどその頃のこと。ある時院長が、こう提案した。
「病院で、手話をやってみないか?」
そういえば、最近たまたま、聴覚障害のある人が来院することが続き、筆談で会話して診療を行った。「あいさつだけでも手話でできたら、きっとすごく喜ばれるんじゃないかな」と院長。
とっぴなアイデアに一瞬戸惑ったものの、皆で机を並べて手話を学ぶのも面白いかもしれない、と思い直した小原さん。
「ああ、いいですね。いっぺんやってみましょうか」
こうして月に一度、手話の講師を招いての、院内手話講座がスタートした。
手話を学び始めてまもなく、聴覚障害のある女性が来院した。いそいそと診察室に入っていく院長。「こんにちは、〇〇です」と、覚えたての手話で自己紹介をしたところ……。
「もう、見たことがないぐらいうれしそうな笑顔で感激してくださったんです」
手話の力で、瞬時に打ち解けたのだ。
ある時小原さん、講師にこんな質問をしてみた。
「耳が不自由な人が動物を飼うのって、どんなことが大変ですか?」
すると講師はこう答えた。「くしゃみやせきをしていても、その瞬間を見ていないと気づくことができません」。なるほど、これは思いもよらないことだった。
「ということは私たち病院側に、『聴覚障害がある人だから、気づかない症状があるかもしれない』との認識がなければ、問診をていねいに取っても、動物の異常を見落とす恐れがあるということです」
さらにはこんなふうにも思った。
「その人のことを知り、その人自身をちゃんと理解しようとする目で見ないと、見えないことってあるんだな」
障害の有無というだけでなく、動物病院には個性も家庭の事情も異なるさまざまな人がやって来る。それなのに、その人個人に目を向けず、型どおりの対応をしていては、大事な情報を見逃すこともあるかもしれない。一人ひとりに寄り添える動物看護師であるために大事な視点を、手話を学ぶことで気づかされたのだった。
聴覚障害者にやさしい病院を作る
動物看護師長である小原さんが現在目指すのは、聴覚障害を持つ人にやさしい動物病院作りだ。
「聞こえなければ、待合室で呼ばれてもわからず、病院を敬遠するようになるかもしれません。すると、動物が治療を受けられない可能性があります。私たちが簡単な会話だけでも手話をマスターすることで、聴覚障害に理解のある病院だと思ってもらえ、来ていただきやすくなるのではないでしょうか」
小原さんが病気になった時、まわりのスタッフは率先して手助けをしてくれたという。
「その時の体験から、高齢の飼い主さんがいれば走り寄ってドアを開けたり、荷物を持ってあげるなどのうれしい成長が見られました」
小原さんが掲げる、「弱者にやさしい病院」というビジョン。これを受け入れる土壌は、スタッフ達の間にすでにできていたのだ。
病を乗り越え、慣れない手話に四苦八苦しながらも、小原さんのチャレンジが始まった。
(次回は10月25日に公開予定です)
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