宮崎徹さん「猫が30歳まで生きる日」インタビュー 猫の腎臓病とAIM研究の歩み

猫と生花
出版のきっかけになった時事通信出版局の編集者の愛猫ジャイロ君。腎臓病のため19歳で死亡した(同出版局提供)

 日本のネコの平均寿命は15.45歳(ペットフード協会調べ)。年老いた猫とネコを愛する人々を悩ませているのは腎臓病です。『猫が30歳まで生きる日』(時事通信出版局)は、ネコにとって宿命的な病である腎臓病の治療にも有効な「AIM」研究をテーマにした、最先端医療の科学ノンフィクションです。著者である東京大学大学院教授の宮崎徹さんに話を聞きました。

(末尾に写真特集があります)

猫の腎臓病を治したい

――『猫が30歳まで生きる日』はどのような経緯で出版されたのでしょうか。

 宮崎:愛猫の腎臓病の悪化で悩んでいた時事通信出版局の編集者が、治療法を調べるなかで私のネコ薬研究のことを知り、2018年に訪ねてこられたのが最初のきっかけでした。その時AIMの話やそれがネコの腎臓薬に応用できる可能性をお話したところ、「この研究をぜひ世に知らせたい!」と、一般向けの本の執筆を依頼されました。しかしながらタイミングなどがあわず、その後本の制作は中断。2020年春に企画が再び動き出しました。普通の企画であれば薬が完成してから本を出すのでしょうが、今回はネコ薬ができていないにもかかわらず出版するという、異例のことになりました。

――いまお話に出た「AIM」と「ネコ薬」についてご説明をお願いします。

 宮崎:「AIM(Apoptosis Inhibitor of Macrophage)」とは、私がスイスのバーゼル免疫学研究所にいた1999年に偶然発見して名付けたタンパク質です。AIMはヒトの血液中に高い濃度で存在するものの、体内でどのようなはたらきをするのか、長らく解明することができませんでした。ですがさまざまな試行錯誤を経て、AIMは死んだ細胞など体内のゴミを掃除する機能をもつことが判明しました。

 私はヒトの医者なので、人間の病気とAIMの研究を進めていました。そして2人の獣医との出会いをきっかけに、ネコの腎臓病とAIMの研究にも取り組みはじめます。人間にとっても腎臓病は〈治せない病気〉ですが、ネコはAIMが先天的に機能せず、そのため老齢になると多くが腎臓病にかかり、長く苦しんだ末に亡くなります。ところが末期腎不全のネコでもAIMを投与すると、全身の炎症が顕著に改善されて、みるみるうちに元気になる子が多くいるのです。「腎臓病のネコを治してオーナーさんをハッピーにしたい」という思いから、ヒト薬に先駆けてまずネコ薬(ネコ用のAIMの薬)を実用化しようと、創薬に乗り出しました。

――一度は中断した企画がなぜ2020年に再び動き出したのでしょうか。

 宮崎:担当編集者の愛猫が2020年1月に腎不全で亡くなりました。亡くなる前はとても苦しみ、そのかわいそうな姿をみて、愛猫家にとって変えようのない腎臓病という悲しい現実を突きつけられたそうです。このことがきっかけで、ネコの腎臓病にも有効なAIM研究を多くの人に認知してほしいと、5月頃に改めて出版を打診されました。他にも愛猫家から薬を待ち望む声がたくさんあったことから、企画が再始動しました。

――カバーが岩合光昭さんの写真というのもネコ好きの心をくすぐります。

 宮崎:カバーに岩合さんの写真を使うことを決めたのは編集者です。たくさんいるネコ写真家のなかでも岩合さんにお願いしたのは、写真からあふれる生命力が魅力的で、本書の「AIMでネコはもっと長生きできる」というコンセプトを表現してもらえると思ったからだとか。岩合さんが撮影された約50万枚という膨大なネコ写真のデータから、カバーの写真として選んだそうです。この写真は私もとても気に入っています。未来を見ているかのような猫の表情がとてもいいですよね。

猫と本
本のカバー写真は岩合光昭さんが撮影した(時事通信出版局提供)

――宮崎先生はネコ薬の創薬を進めるも、コロナ禍による経済的打撃を受けてスポンサーが撤退。プロジェクトは中断を余儀なくされました。本書が出版されたことで状況に変化はありましたか?

 宮崎:本もさることながら、出版に先駆けて配信された記事がバズり、社会現象になりました。東大にも寄付金が殺到という前代未聞の事態となり、それをさまざまなメディアが報道、当時の官房長官にも定例記者会見で取り上げていただきました。このように世間が動いたことが、製薬会社の背中を押して、とある会社と一緒にネコ薬開発を再開するめどがつきました。しかも今回は今までよりかなり速いスピードで、かつアップグレードしたAIM製剤が作れそうです。

――本書の印税の一部はネコと人間の腎臓病研究の費用に充てられることが明記されています。このような例はあまりないと思いますが、どのような経緯で決まったのでしょうか。

 宮崎:時事通信出版局さんのアイデアです。通常よりかなり高い印税を設定していただき、その一部を研究費にという、通常はあり得ないご厚意をいただいています。今は東大への寄付が殺到していますが、正直に申し上げれば大学に入る寄付金には制約が多く、あくまで「大学で行う研究」に使わなければならないのです。ネコ薬創薬のためにはフットワーク軽く使える研究費も重要で、本書の印税がその役割を担っています。本を買っていただくことも、ネコ薬創薬の大きな力になります。

臨床から基礎医学の世界へ

――宮崎先生は当初は医者を目指していなかったそうですね。

 宮崎:もともと薬学部志望でしたが、父の強い希望で医学部に進学しました。ところが医学への興味がわかず、大学時代は授業をサボり、音楽にのめり込んでいました。カラヤンという指揮者の生き様に惹かれて、自分も指揮者になりたいと私設オーケストラを作って指揮していたほどです。

 その後、新潟から来ていた藤田恒夫先生の授業にたまたま出席したところ、講義が非常に面白く、初めて医学に興味をもちました。東大にはフリークオーターという、夏休みの一ヵ月間を自分の好きな研究室で初歩的な研究をする制度があり、藤田先生のいる新潟大学に行きました。

 研究の内容は高度すぎて分からなかったのですが、藤田先生には当時私が仲良くしていた芸大の先生や学生にも通じる雰囲気があり、それでいて高度なサイエンスをやっている事にものすごく憧れました。藤田先生には芸術的としかいいようのない、基礎研究がもたらす感動を教えていただきました。健康という状態は美しい響きで、病気は濁った響きに似た状態であるというお言葉は、いまだに私の中の指標になっています。

――臨床医として病院に勤務されたのち、なぜ基礎医学の道に進まれたのでしょうか。

 宮崎:臨床医は大変やりがいのある仕事でした。けれどもさまざまな患者さんを診ていくなかで、現代医療では〈治せない病気〉が多いという事実に直面しました。腎臓病ものその一つです。腎臓はキャパが大きい臓器ですから、腎機能が相当悪くなるまで体にはあまり影響が出ないのです。ある患者さんは、突然具合が急激に悪化してしまいました。尿毒症ですよね。こうなる前になんとかしてあげられなかったのか、一体我々医者は何をやっているのだろうと悩むこともありました。

 そして病気の本体が分かっていないから治せないのだ、病気のことをもっと深く知るために基礎医学をやらねばと考えました。〈治せない病気〉を治すためには、体をまるごと診る必要があります。それができるのが、遺伝子改変をしたマウスの体全体を観察するという技術でした。この分野で先進的な研究をされていた熊本大学の山村研一先生に連絡を取り、大学院生として進学しました。

――当時は今のようにネットで簡単に情報を探せる時代ではありませんでした。どのようにして遺伝子改変技術にたどり着いたのですか?

 宮崎:当直あけに医局に行き、たまたまそこにあった「実験医学」という雑誌を手に取りました。その中に山村先生が書かれた総説があって、読み終えた後、この先生に習わなきゃいけないと確信しました。「トランスジェニックマウスを超える技術はありえるか」というタイトルを、今でも覚えています。

 ですが東大から熊本の大学院に行く、しかも臨床医が基礎医学に舵を切ってというのは前代未聞でした。面接を担当した教授たちからも皮肉っぽいことを言われたのを覚えています(笑)、と直に言われて面食らいました。しかし実際、臨床だけやっていた人間がいきなり最先端の基礎医学の研究室に入ったので、最初のうちはかなりつらかったです。

――同じ医学でも臨床と基礎医学は違うのでしょうか。

 宮崎:全然違います。臨床をやっていると、この病気にはこの治療という回路ができているので、「この病気にこの薬が効くメカニズムは何だろう?」といったような基礎医学的な思考をいちいち持ったりしません。私も最近までたまにアルバイトで患者さんを診ていましたが、基礎医学を何十年とやってきたにもかかわらず、臨床医として白衣を着ると完全にマインドが変わりました。

宮崎徹教授
AIMを発現する細胞からタンパク質を精製する作業をする宮崎徹教授

専門性の壁を超えて

――熊本大学での修業時代を経て海外に渡り、免疫学の専門家としての地位を確立されました。ですが徐々に専門性の限界を感じるようになります。

 宮崎:指揮者という観点からいうと、指揮者はどの楽器の専門家でもありません。けれどもすべての楽器のことを分かっていないと、オーケストラを指揮することはできません。病気の治療も同じです。一カ所だけでなく、体全体の響きの濁りを美しい響きに矯正していく必要があるのではないでしょうか。そもそも膠原病のような免疫の病気ですら、免疫学だけでは治せません。だからこそ専門に固執するのではなく、全方位指向のアンテナを張りめぐらせて研究する必要があると思い始めました。

――医学という分野に限らず、一般的には専門性を深めることが尊ばれます。

 宮崎:バーゼル免疫学研究所で自分の研究室を持ち、影響力のあるジャーナルに論文を書いていた私は、そこそこ一流の免疫学者の仲間入りをできていたと思います。免疫学の領域だと誰でも自分を知っているし、学会に行けばみな友だちと、ある意味非常に楽でした。ですが私は免疫学という専門性と決別しました。専門を捨てるということは、その様な仲間内にいる利点を全部捨てることです。つらいことや大変なことはたくさんありましたが、そうでもしないと〈治せない病気〉を治せないと考えて、困難には屈せずなんとか研究を続けていきました。

――AIM研究の重要な転機となったのは、経済人や獣医からの示唆でした。

 宮崎:それまでの私は、体内にあるさまざまなゴミをどうやって取り除けばよいのだろうと、臨床医の頭で考えていました。ですがワインを通じて知り合った、大手ITシステム開発企業で、当時副社長だった有賀貞一さんという方から示唆をいただき、もともと体に備わっている「ゴミ掃除機能」を強化すればよいと気づきました。そしてAIMにそのゴミ掃除機能強化の効果があるのではないかと、すべてが繋がりました。それまでは私の中では〈治らない病気〉を治すことと、AIM研究は別ものでしたが、ここで初めて結びついたのです。

 ネコの腎臓病研究も、研究者が参加する学会ではなく、一般向けのセミナーで「ネコにはAIMがないらしい」と話したことがきっかけで始まりました。セミナーに参加していた2人の獣医から、ほとんどのネコは老齢になると慢性の腎臓病になると教えていただいたことで、ネコの腎臓病はAIMで治せるかもしれないと思いました。

グレーの猫
AIMを投与され、治療を受けた「楽(らく)」ちゃん(岩崎裕治さん提供)

創薬のパラダイムを革新

――ネコ薬の創薬を進める一方で、宮崎先生はヒト薬(ヒト用のAIMの薬)開発にも取り組まれています。

 宮崎:ネコ薬開発のベースとなっているAIM研究が進んだ結果、2019年秋に「ヒトAIM創薬開発プロジェクト」が日本医療研究開発機構(AMED)に採択され、大きな額の研究費をいただけることになりました。腎臓病とアルツハイマー型認知症の克服を2本柱に位置づけて、現在ヒト創薬を進めています。

――宮崎先生の歩みには、一貫して〈治せない病気〉を治したいという強い信念が感じられます。そのための研究はゴールに近づきつつあるのでしょうか。

 宮崎:近づいていると思います。これまでの研究成果をレベルの高いジャーナルに投稿してきたので、様々な病気に対する基本的なエビデンスは揃っています。あとはいかにAIMを薬にするかですが、これもネコ薬が大きな注目を浴びたおかげで目処が立ちつつあります。

 AIMはさまざまな病気を治すことができますが、まずは一つの疾患で治験を通し承認される必要があります。それができれば、適応拡大といっていろいろな病気に使えるようになるのです。一体どの病気で治験すれば一番早く承認されるのか、自分の中ではほぼ見通しは立っています。これから1年ほどが勝負時です。AIMによっていままで治らなかったたくさんの病気を治せるようになった時こそ、従来の医学の常識である「1疾患1薬剤」を打ち破り、創薬のパラダイムを大きく革新することができるでしょう。

宮崎徹(みやざき・とおる)
東京大学大学院医学系研究科疾患生命工学センター分子病態医科学教授。1986年東京大学医学部卒。同大病院第三内科に入局。熊本大大学院を経て、92年より仏パスツール大学で研究員、95年よりスイス・バーゼル免疫学研究所で研究室をもち、2000年より米テキサス大学免疫学准教授。06年より現職。タンパク質「AIM」の研究を通じてさまざまな現代病を統一的に理解し、新しい診断・治療法を開発することをめざしている。
写真:松嶋愛
フォトグラファー。1982年鳥取県出身。2009年よりフリーランスフォトグラファーとして活動を始める。人物撮影を中心に料理などジャンルを問わず幅広く撮影。 被写体の自然な表情を切り取ることを得意としている。食べることが好きだが、最近は筋トレを始めてゆるーく肉体改造中。

1979年札幌生まれ。猫好きだがアレルギーがあり自宅では飼えないため、猫グッズ購入や叔母の愛猫(花ちゃん&桜ちゃん)で癒しを得ているライター。著書に『氷室冴子とその時代』(小鳥遊書房)や『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』(彩流社)、編著に『大人だって読みたい! 少女小説ガイド』(時事通信出版局)など。

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