愛犬に罪悪感抱く飼い主と病院嫌いの犬 ふたりの人生変えた「ノーズワーク」とは
ノーズワークは、犬の嗅覚(きゅうかく)を使ったアメリカ生まれの遊びです。動物看護の仕事に従事する中村昌子さんは、ある飼い主から、愛犬に「悪いことをした」と胸のうちを打ち明けられました。その理由を聞き、ノーズワークが飼い主を前向きにしてくれると直感した中村さん、思いきって自身が開催するレッスンに誘ってみたところ――。
成功体験を積み、自主性を育む
中村昌子さんに転機をもたらしたのは、たまたま目にした1枚のちらしだった。書かれていたのは、JAHA(公益社団法人日本動物病院協会)の「こいぬこねこ教育アドバイザー」(当時の名称は「パピーケアスタッフ」)養成講座の案内。講座の目的は、子犬・子猫のしつけや健康管理を指導できる、動物病院スタッフの養成だという。
興味を引かれ、受講を申し込んだ。「子犬に動物病院に慣れてもらうため、診察室でおやつを食べる経験をさせましょう」。講師のこんな教えを聞いた時、目からうろこが落ちた。
「これだけのことで恐怖心が減り、ワンコの心が少なからず守られる。『何でこんな簡単なことができていなかったんだろう』って反省しました」
以来、現在勤務するマナ動物病院(兵庫県宝塚市)でもパピークラスを開き、犬と人のよりよい暮らしのお手伝いをしてきた。
そんな中村さんが数年前、知人に誘われて初めて体験したのが、「ノーズワーク」の動物病院スタッフ向けセミナーだ。講師は日本のノーズワークの第一人者である、スニッファードッグカンパニーの細野直美先生。
ノーズワークの初級編では、部屋の中に箱を並べ、そのいくつかにご褒美のおやつを入れておく。そして犬を連れてきてリードを放し、自由に動いておやつを探してもらう。発祥地であるアメリカでは広く普及しているドッグスポーツだ。
飼い主にベッタリの子はひとりで行動できなかったり、箱自体が怖くて近づけない子も多い。
「でも、思いきって自分の脚で箱まで近づき、匂いをかいだらいいことがあった。この成功体験を積むことで、『飼い主と離れても大丈夫なんだ』『この箱は怖いものじゃない』と学習しながら、心を強くし、自主性を身につけてもらえます」
さらにノーズワークを重ねるうちに、先にしっかりと鼻を使って情報収集できるようになる。すると普段の生活で見知らぬものに出合っても、まずは冷静に匂いで確認できるため、むやみやたらにほえなくなる効果もあるのだとか。
「病院に来てノーズワークを楽しめれば、犬にとって病院が嫌な場所ではなくなります。くわえて、ノーズワークがもたらすこうしたプラスの効果のおかげで、怖がり、よくほえる、依存度が高いなどの困りごとが解決に導けます。レッスンで話を聞くうちに、『あの子もいけるのでは、この子にもしてあげたいな』って、何匹も浮かんできたんです」
初回は緊張のあまり動けず
以前からの患者に、メスのシェットランドシープドッグの「チャミー」ちゃんがいた。お母さんが病院に連れてきていたが、やがて認知症が進み高齢者向け施設に入ることに。以来、スタッフが「お姉さん」と呼ぶ、お母さんと同居していた娘さんが来院するようになった。
「お姉さんが、『チャミーにすごく悪いことをしちゃった』って、口にするようになったんです。『チャミーはお母さんが大好きだったのに、施設に入居することで、離してしまい申し訳ない』って」
ちょうどその頃、ノーズワークを勉強中だった中村さんの脳裏にひらめいた。「もしかしたらいけるかも……!」
「チャミーちゃんは関節炎で脚が悪いのに、お散歩では病院の前を猛ダッシュで通りすぎるほどの病院嫌い。今後、年齢が上がれば来院の機会も増えるので、ノーズワークで苦手意識が改善できたらと考えたんです」
何より、チャミーちゃんにとって少しでも楽しみができれば、お姉さんの罪悪感が薄れるかもしれない。
そこで、「今度新しくノーズワークのレッスンを始めるのですが、来てみませんか?」と声をかけてみた。すると興味を持ってくれたようで、二つ返事で「参加します」との答え。月に一度のレッスンに来てもらうことになった。
そして迎えた、中村さんが生まれて初めて実施するレッスンの日。ちょっぴり不安なので、最初の数回は細野先生にアシストをお願いした。
予想通り、病院に来てガチガチに緊張してしまったチャミーちゃん。その場から動くことすらできず、ノーズワークどころではなかった。
翌月のレッスン。「おや?」と思ったのは、1回目を終え、ブレークタイムで病院の外に出てもらった時のこと。ふと見ると、病院の自動扉のところにチャミーちゃんが座っているではないか。
「病院嫌いのチャミーちゃんなのに、ありえないって思いました。でも私の中では、判断がつかなくて。すると細野先生が、『ああ、レッスンやりたがってるわ。入り、入り』って呼んでくれたんです」
それは4カ月目のことだったか。チャミーちゃんはついに自分の脚で箱まで歩いていき、ご褒美を食べてくれたのだ。
そこからはレッスンは順調に進んでいった。
「チャミーちゃんがノーズワークを堂々と楽しむ姿、そして診察の時も自分から病院に入り、前は震えていた診察室でおやつを食べられるようになった成長ぶりに、お姉さんも感激してくれた様子でした」
お姉さんの、チャミーちゃんを見る目も大きく変わったに違いない。そしてお姉さんと親しくなる中、初めて知ったことがある。チャミーちゃんと長年暮らしてきたお姉さんたが、「じつは犬が怖い」と打ち明けたのだ。
お姉さんに現れた変化
ほどなくしてチャミーちゃんは体調を崩してしまう。検査すると、心臓に腫瘍(しゅよう)があるようだった。だが年齢的にも手術は難しく、痛みを取り除く緩和ケアを行うことになった。
ノーズワークは、体調がよければ来てもらうという形で続けた。だがレッスンを始めて1年ほどたった頃、お姉さんからの電話で、チャミーちゃんが息を引き取ったと告げられた。
「よかったら、お顔を見せてもらえませんか」
病院に連れて来てもらい、リボンをつけてあげて、最後のお別れをした。チャミーちゃんがいなくなり、お姉さんが病院に来ることはなくなった。
ある日、中村さんあてに一本の電話がかかってきた。声の主はお姉さんだった。
「チャミーが亡くなった時、コロナ禍で施設の外出許可が下りなくて、母をチャミーと会わせてあげられなかったことが心残りです」とお姉さん。続く展開に中村さんは驚いた。
「やっぱり母が帰ってきた時に、犬がいる方がいいかなと思うので、飼ってみようと思うんです。ご相談させてもらっていいですか?」
犬が怖いと言っていたお姉さんが、次の子を希望するなんて!
約束した日にお姉さんはやって来た。「あまりベタベタしない性格で、チャミーぐらいのサイズがいい」との相談を受け、中村さんはいろんな犬の性格や特性を説明した上で、それに合う犬種をいくつか提案した。
そして迎えたのがメスの柴犬の「華凜(かりん)」ちゃんだ。現在、中村さんのパピークラスに通い、子犬の教育の真っ最中だ。
「犬を飼ったことがつらい経験になり、『もう飼わない』と思われるのは私たちにとっても悲しいことです。お姉さんが次の犬を飼いたいと考え、なおかつ子犬選びを相談してくれるなんて。この仕事をしていてよかったなと思いました」
ノーズワークを通してたくさんの喜びをもたらしてくれた、レッスンの栄えある第一期生のチャミーちゃん。おかげで中村さんは今、自信を持ってノーズワークに取り組んでいる。
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