猫の医療を変える「人工血液」 輸血用の「供血猫」が不要に
慢性的な輸血用血液の不足に悩まされてきた動物医療現場に革新的変化が起きつつある。人工血液の開発だ。猫用は実用化まであと一歩の段階までこぎ着けている。
2018年3月、猫医療界に画期的な朗報が飛び込んできた。「長年の夢」だった猫用人工血液(赤血球代替物)の開発に、中央大学と宇宙航空研究開発機構(JAXA)の共同研究チームが成功したのだ。
「未踏の領域に足を踏み入れている感じです」
中央大学理工学部応用化学科の小松晃之教授は、そう心境を打ち明ける。
人工血液の実用化は、ヒト、動物を問わず国内で前例がない。新薬認可基準など、実用化に向けた今後の課題を全て見通すのは困難なのが実情だ。これは今回の研究成果が「革新的な発明」である証左ともいえるのだが、小松教授はあえて「5年以内」の実用化を目指したい、と意気込む。深刻な輸血用血液の不足にあえぐ動物医療現場の現実を知るがゆえだ。
ペットの高齢化や肥満化が進み、猫の輸血頻度も増加傾向にある。しかし、動物医療の現場では十分な体制が整っておらず、命を落とす例も少なくない。
備蓄システムはない
人間の場合、献血システムがあり、日本赤十字社の血液センターから輸血に必要な血液を入手できるが、動物用血液の備蓄システムはそもそも存在しない。輸血が必要な場合、各動物病院がドナーを探し、血液を準備しなければならない。血液は長期間保存するのが難しいため、輸血用の血液を提供してくれる「供血猫」をあらかじめ飼育している動物病院もある。
この難題の解決に寄与すると期待されているのが、人工血液の開発だ。人工血液が病院内に常備され、いつでも供給できる体制が確立されれば、ドナーの確保も血液適合性試験も不要になり、輸血に伴う負担は大幅に緩和される。保存安定性にすぐれた製剤であれば、緊急時の対応も万全となる。
ヒトも猫も血液は多くの成分からなり、それぞれが重要な働きを担う。血液中で酸素を全身に運ぶ役割を果たしている赤血球は、けがや手術で出血したり、血液の病気などで貧血に陥ったりした際、最もニーズの高い輸血用の血液成分だ。その需要に応えようとしているのが、小松教授らの研究グループとJAXAが今回、開発に成功した「赤血球の代替物となる人工酸素運搬体」である。
小松教授はもともと人体向けの人工血液の開発・研究に取り組み、2013年にヒト用の「赤血球の代替物となる人工酸素運搬体」である「ヘモアクト」という製剤の合成に成功した。この成果に大きな関心を抱き、13年に共同研究を持ち掛けたのがJAXAだ。国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の無重力状態では、タンパク質の高品質な結晶がつくりやすくなることを利用し、ヘモアクトを構成する成分の形状を明らかにすることで、研究に貢献できるのではないか、と考えたのだ。
ヒト用ヘモアクトを猫用として使用するためには、赤血球の中に含まれるタンパク質(ヘモグロビン)に結合しているヒト血清アルブミンを猫血清アルブミンに置き換える必要がある。しかし、猫血清アルブミンは猫の血液(血清)から採取しなければならないため、製造に十分な量を確保することはできない。この問題を解決するには、遺伝子工学によって猫血清アルブミンを新たにつくりだし、これを原料とすることが必要となる。
立体構造の特定に成功
そこで小松教授らの研究グループは、遺伝子組み換え技術を用いて猫血清アルブミンを人工的に産生。この猫血清アルブミンを、JAXAが「きぼう」で結晶化し、得られた結晶から立体構造を特定することに成功した。立体構造は、その分子の働きや特性を理解するうえで重要な情報を含んでいる。短期間での成果は、地上と宇宙の実験室の高度な連係プレーのなせる業だ。
構造が明らかになった猫血清アルブミンを用いてつくった猫用ヘモアクトは、猫の人工酸素運搬体(赤血球代替物)として機能し、粉末で長期間保存でき、血液型がないため拒絶反応も起きない。
一般社団法人ペットフード協会によると、17年に国内で飼われている猫は推計953万匹。市場に供給するには、大量生産が可能な製造技術を確立する必要があるが、今回開発した猫用ヘモアクトの原料は、ヘモグロビンと遺伝子組み換え猫血清アルブミンと市販の試薬のみ。合成が容易なことは実用化に向けての最大の利点だ。小松教授は言う。
「少子高齢化の影響で、人間の輸血用血液も10年後には約85万人分が不足すると言われています。慢性的に輸血用血液が不足している現在の動物医療現場の状況に、10年後の人間の医療現場の姿を重ねて見ることができます。ヒト用、動物用を問わず人工血液を一日も早く供給したいですね」
一方、JAXAの小川志保・きぼう利用センター長は「猫血清アルブミンの構造を、『きぼう』での宇宙実験を通じて明らかにすることができました。今回の研究成果が一匹でも多く猫の命を救うことにつながれば、こんなにうれしいことはありません」と話す。
しのぎ削るベンチャー
動物用人工血液(赤血球代替物)の開発は、バイオベンチャーもしのぎを削る。
小動物の遺伝子検査の受託業務や細胞療法の技術支援を行っている「ケーナインラボ」(東京都小金井市)は、早稲田大学が20年以上蓄積してきたヒト用人工赤血球の開発技術を応用した、動物用人工赤血球の開発事業に2年前に着手。奈良県立医科大学の酒井宏水教授との共同研究によって、5年以内の実用化を目指す。同社の山口智宏代表は言う。
「牛の赤血球から酸素の運搬機能を持つヘモグロビンを精製し、そのヘモグロビンを脂質膜で包み込むことで、赤血球と同等の酸素運搬機能を保持しながらヘモグロビンの副作用をなくす技術を既に確立しています」
主な特徴は、「血液型がない」「感染性がない」など。小松教授らのグループが開発した赤血球代替物との最大の違いは、「異種動物への投与が可能」な点だ。動物用製剤として開発に成功すれば、犬でも猫でも投与できる。
人工血液の実用化に向けた動きに、医療現場の期待も膨らむ。
成城こばやし動物病院(東京都世田谷区)の小林元郎院長はこう話す。
「近年、医療技術の高度化と、治療効果への期待の増大、救急診療施設等のインフラの充実によって、輸血のニーズは確実に高まっています。しかし、いざ輸血となっても、各診療施設の努力、飼い主間のネットワークによってドナーを募集し、急場をしのいでいるのが現状です」
造血器の疾患、慢性腎不全の末期等により長期に多量の血液が必要となる症例には適さない仕組みなのだという。
「ヒト医療同様の血液供給があれば、救える命も格段に増えます。人工血液は動物医療現場にとって朗報となることは間違いなく、実用化に大いに期待しています」(小林院長)
(編集部・渡辺豪/写真部・小原雄輝)
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