福島に残り動物の世話を続ける男 心に背負った十字架
生い茂る木々に囲まれた山里の一角で、不意に動物たちの気配が濃くなった。
福島県富岡町。東京電力福島第一原発から12キロの町に2月19日、山口県光市の写真家・那須圭子(57)と友人の葛西敦子(56)=東京都=が訪れた。原発事故で立ち入り禁止になった地に一人残り、動物たちの世話を続ける男に会いに。
日付が変わる頃、作業服を着た男が帰ってきた。松村直登(58)。那須たちと酒を飲みながら、これまでの日々を振り返った。
震災当時、鉄筋工事の会社を営み、両親と暮らしていた。7年前の3月11日午後、ものすごい揺れに襲われた。だが、母は足腰が悪く、動くに動けない。その翌日の午後、今度は「ドドーン」という音が腹に響いた。原発で起きた水素爆発の音だった。
さすがに避難しようとしたが、親戚の家や避難所に居場所は見つからず、やむなく自宅に戻った。数日後、近所を歩いていると、顔見知りの犬の鳴き声を聞いた。飼い主が避難する中、取り残されて、腹をすかせていた。餌をやると、またその先にも空腹の犬……。繰り返すうちに、動物たちを放っておけなくなった。
1カ月ほどして、両親は静岡の姉のもとへ避難したが、松村は残った。動物たちを残して、飢え死にさせることはできなかった。避難指示に従うよう、説得もされた。「動物たちを何とかする方法を考えろ」というと、皆、黙り込んだ。
電気は止まり、夜になると明かりはロウソクだけ。山菜を採り、川で鮎(あゆ)を釣って食べた。話し相手もいない孤独の中、松村は犬たちと約束した。「餌は俺が何とかしてやるから」
犬、猫、牛、ポニーと、世話する動物は次第に増えた。外国のメディアがその姿を報じ、松村のことが伝わっていった。那須はインターネットで松村のことを知った。話を聞きたくて、2014年5月、葛西と共に松村を訪ねた。それから数カ月に1度ずつ、足を運ぶ。
翌日、松村は2人を連れて外出した。牛に草をやるためだ。ほぼ毎日、家の近くの牧場など3カ所で牛を世話する。大量の草を運び、下ろす。草をやり終えると、車である場所へ向かった。
柱と柵が立ち並んだ建物。そこは、かつて牛舎だった。震災で所有者が避難し、120頭ほどの牛が舎につながれたまま餓死した。舎の中にはほんの1年前まで、白骨化した死体が連なっていたという。那須は幾度もこの牛舎に赴き、無言の骨に向かって謝った。ごめんね、人間って愚かだね。
その日の夜、松村は押し入れから手提げ袋を二つ取り出した。中が詰まり、ずしりと重い。「これは、俺の十字架なんだ」
5年ほど前、横須賀駅(神奈川県)の近くで募金活動をした。動物たちの餌代を得るためだ。小さな女の子がお金を入れた。これで牛さんを助けて。その声を聞いたとき、松村は「もう俺はダメだ」と思った。何て重いものを背負ったのだ、と。そうした思いが詰まった募金が松村の「十字架」になっている。
松村は動物愛護者ではない。放射性物質で体がどうなるかも分からない。それでも動物を世話するのは、自分も動物も「同じ生命、同じ境遇」だからだ。
町は17年4月、一部を除き、避難指示が解除された。戻ってきた人はごくわずかだ。7年間、歯を食いしばってきた松村の覚悟は揺るがない。「俺はここで生きる。ここで戦う。それが俺の使命なんだ」=敬称略
(山本悠理)
◇
東日本大震災とともに、人々の生活を狂わせた福島第一原発の事故。「3・11」を前に、山口から福島に通う写真家の那須圭子さんに同行して、原発事故にあらがい土地に根を張って生きる人たちを訪ねた。
sippoのおすすめ企画
「sippoストーリー」は、みなさまの投稿でつくるコーナーです。飼い主さんだけが知っている、ペットとのとっておきのストーリーを、かわいい写真とともにご紹介します!
LINE公式アカウントとメルマガでお届けします。