獣医師をやめて29歳で弟子入り 異色の落語家・林家卯三郎さん
獣医師免許を持つ異色の落語家が上方にいる。林家卯三郎(うさぶろう)さん(48)。獣医師として安定した職を捨てて、29歳で師匠に弟子入りした。まさに波乱に満ちた半生について語ってもらった。
◇ ◇
卯三郎さんは1970年、岐阜県笠松町で生まれた。自宅で黒柴を飼っており、幼い頃から動物好きだった。「シートン動物記」やイギリスの獣医師ジェイムズ・ヘリオットの本を読み、テレビで「ムツゴロウの愉快な仲間たち」を見て育ったという。一方で、中学生の頃から会社員の父の趣味に付き合って、落語を一緒に聞くようになった。
動物好きが高じて、獣医師を目指し、北海道の酪農学園大学に入学した。一方で、落語は趣味として、落語研究会に入って日々練習していた。ところが、進路を考える大学5、6年生になると、だんだん雲行きが怪しくなる。勉強にいまひとつ身が入らず、獣医師の国家試験に落ちてしまった。国家試験の合格率は9割ほど。その試験に落ちてしまい、一浪することになった。
安定した人生を捨てて
翌年、なんとか国家試験に合格し、大学の先生のはからいで岡山県の職員になることができた。獣医師として、酪農家の衛生指導や家畜の健康状態を管理する「防疫」の仕事だ。
獣医師で公務員。大学の後輩だった彼女と結婚もして、安定した人生を歩む道筋が見えてきた。ずっと趣味で続けていた落語は、年に一度、北海道で高座に上がったり、岡山で噺家の前座で出たりしていたという。仕事も趣味も順風満帆である。
しかし、心の中で何かがくすぶり続けていた。そして、ついに、こう思い至る。
「先が見えている人生なんてつまらない。このまま落語を趣味で続けるなんてできない。落語家として一旗挙げよう」
激怒する父、燃え上がる気持ち
就職して1年目だった。なれる当てはなかったが、落語家になると決意をした。そして上司に退職願を提出してしまった。妻はというと、賛成もしなければ、反対もしない状態だったという。
それを電話で告げると、父は激怒した。怒り心頭である。しばらくして「落語家になる、ならない問題」を話し合うため、京都で親族会議が開かれた。妻の両親はまゆをひそめ、卯三郎さんの父は、妻に向かって「あんたがそばにいながら、何だ!」と責め立てた。卯三郎さんはその場を取りつくろいながらも、気持ちは萎えるどころか、燃え上がった。「預金はあるのか!?」という父の一言が気持ちに火をつけたという。
「責め立てられて悔しかった。反対されたら、ますます落語家になりたくなりました」
しばらくして父から電話がかかってきた。
「今から岡山に行く。上司に謝って、退職願を取り下げてもらう」と怒鳴られた。卯三郎さんは腹立たしさと、父への恐怖がないまぜになり、何はともあれ「会いたくない」と、妻と2人で家を飛び出し、上司に相談に行った。だが、上司からは落語家はあきらめて、職場に復帰することを勧められた。その後、父もやって来て上司に謝罪。結局、卯三郎さんは職場復帰することになったという。
ようやくつかんだチャンス
それから2年間、岡山で獣医師の仕事を続けながらも夢が諦められず、再び落語家になることを決意した。
だが、「落語家になる」と思うのは簡単だが、誰にでも門戸が開かれているわけではない。たまたま師匠が弟子を募集していることもあれば、まったく空きがないこともあり、運不運もある。獣医師になるより難しいと言ってもいいだろう。
卯三郎さんは憧れの落語家・林家染丸さんの落語会に足を運び、染丸さんの「出待ち」を続けた。そして、ついに染丸さんに「入門させてください」と願い出ることができた。
その時、意外にも、染丸さんは「今度、うちに来て、噺を聞かせてください」と言ってくれた。卯三郎さんは目の前に落語家への道がパーッと開けたような気がして、はやる気持ちを抑えきれなかった。
とはいえ、染丸さん宅を何月何日に訪ねますと約束したわけではない。卯三郎さんは披露する落語の練習を積み、再び染丸さんに会うべく大阪の落語会の楽屋を訪ね、やっと正式に自宅に招かれたそうだ。
試されたのは「本気」
年が明けて1月、いよいよ染丸さんの前で落語を披露する日がやって来た。古典落語「隣の桜」を精一杯演じた。それを聴いた染丸さんは「なまりがあるし、せっかく獣医師の免許を持って仕事をしているのだから、落語はやめておいたほうがいい」と、きっぱり弟子入りを断った。卯三郎さんは目の前が真っ暗になったという。
普通に考えれば、染丸さんの言うことには道理が通っている。せっかく大学で6年間勉強して国家試験に合格し、獣医師として公務員になったのだ。安定した人生を棒に振って、今から落語家を目指すというのは、無謀とも言える。
だが、一度断られたからといって、あきらめられるような柔な決意ではなかった。1カ月後、「なんばグランド花月」(大阪市)に染丸さんを訪ねると、「なかなかけーへんかったな。弟子にするわけではないけど、遊びに来たら落語を教えてあげる」と言われた。チャンス到来である。染丸さんは、落語の素質だけでなく、「本気で落語をやりたいのかどうか」を試していたのだった。
弟子入りし、両親と絶縁
ついに2月、染丸さん宅への出入りを許された。だが、弟子になれたわけではない。それでも日曜日のたびに、卯三郎さんは染丸さん宅を訪ねた。そこで高座に上がる時のお囃子を教えてもらったり、食事を共にしたりした。
岡山の職場には、改めて退職願を出して受理された。妻と2人でアパートを借り、大阪での生活が始まった。
弟子には給料と呼べるものがなく、月に1万円も入ってきたらいいほうだ。卯三郎さんは、家族会議で父親に「預金もないくせに」と言われたので、獣医をしながら貯金をしていた。生活にはそれを切り崩してあてた。
やがて4月になると「見習い弟子」になることを許された。卯三郎さん、29歳の時のことである。6月には「弟子」になったが、まだ名前はつけてもらえない。
落語家の弟子になると、約8割はそのまま落語家として残ることができるという。残りの2割は夢破れて去っていく。卯三郎さんは、兄弟子や弟弟子と家事手伝いや電話番、食事の準備、雑用、マネージャー……と何でもこなし、その仕事の合間に稽古をつけてもらった。
「弟子になった」と実家に電話すると、母は絶句。折悪しく、愛犬のテツが亡くなったところだった。その後1年ほど、両親とは絶縁状態になった。
落語家として独り立ち
両親と連絡を断っていた卯三郎さんのもとを、ある日、父が「30万円、貸してくれないか」と訪ねてきた。どうやら母には言えない借金があったようだ。その時、少しわだかまりが解けたのか、なんばグランド花月に出演した卯三郎さんを見に来て、師匠に「お世話になっています」と挨拶したという。
弟子入りから3年後、卯三郎さんは独り立ちすることが許された。年季明けだ。弟子の時は、師匠の許しがないと仕事を受けられないが、年季明けすれば、今度は自分で仕事を探さなければならない。卯三郎さんは、先輩の落語会に顔を出して手伝いをしたり、打ち上げに行って皆と食事を共にしたりして、仕事の縁をつないでいった。
独立して20年目。いまでは「天満天神繁昌亭」(大阪市)の落語会に出演し、大阪、北海道、岡山などで定期的に独演会を催すなど活躍している。物語性の高い「人情噺」が人気で、「さらに腕を磨き、一流の落語家として認められたい」という。
父はいまだに「北海道にいる時、仕送りした通帳を取ってある。なぜ獣医を辞めたのか」と愚痴を言う。母は落語に対して心にしこりを残したまま亡くなった。「獣医師にするために、6年間も大学に行かせたのに」と、息子の幸せを願う親は思ってしまう。しかし、本人は有名になりたいとか、バカ儲けしたいとか、浮ついた気持ちではなく、落語家として精進したいと、静かに、熱く思い続けている。
動物にかかわる仕事も
獣医師をやめて落語家になった卯三郎さんだが、縁は巡り巡るもの。大学のゼミで一緒だった獣医師の小笹孝道さんが、大阪市獣医師会の理事を務めるようになり、毎年開催される大阪市の動物愛護フェスティバルの司会を依頼されるようになった。
今年は9月22日に大阪市中央公会堂で開かれ、長寿の犬猫266匹が表彰された。卯三郎さんは大型スクリーンに写真が映し出される1匹1匹に「ずっと一緒にいようね」「長生きしてくれてありがとう」など、飼い主の温かいメッセージを読み上げた。
フェスティバルは11月11日には大阪城公園でも開かれる。こちらでも卯三郎さんは盲導犬や警察犬のデモンストレーションなど、メインステージで司会進行を担当する。
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