『ペットと人のウェルビーイングプロジェクト』はこころ・からだ・社会という3つの視点からウェルビーイングを捉え、その考え方を犬や猫に当てはめた動物福祉学の指標「5ドメイン(5つの領域/健康・栄養・環境・機会・精神状態)」をもとに、ペットと人がともによりよく暮らせる社会をめざす取り組みです。東京大学名誉教授・西村亮平先生から見た、動物の医療と5ドメインについてうかがいました。
動物のために紡ぐ「幸せな物語」の医療
5ドメインをもとに動物の立場で幸せを考える
動物の立場から幸せを考える「5ドメイン(5つの領域/健康・栄養・環境・機会・精神状態)」は、イギリスで生まれた動物福祉の指標を発展させた考え方です。5ドメインはペットのウェルビーイングを動物の視点で考える指針になり、犬らしく・猫らしく生きるために必要なことを見つけるために役立つでしょう。
動物福祉が根付いている欧米では、犬や猫などの動物を人がコントロールすべきという、人間主体の考え方が一般的です。日本は動物福祉が遅れていると言われますが、人がコントロールすべきという意識は低いように思えます。むしろ動物の気持ちも考慮する日本のほうが、動物主体と言えるかもしれません。
本来、動物の幸せは動物が決めることで、人間が決めることではありません。しかし、犬や猫が人間の家庭や社会の中で暮らしている現状では、動物たちの幸せは飼い主さん次第になっています。5ドメインは飼い主さんが愛犬・愛猫の幸せを考え、ひいては人と動物の共生社会の実現のために身につけたいリテラシー(知識や能力を活用する力)ともいえるでしょう。
動物・飼い主・獣医師の幸せにつながる医療
獣医師の立場から言えば、健康で生きることや病気を治すことは幸せにつながります。
すべての医療は、根拠に基づく医療(エビデンス・ベースド・メディスン/EBM)を積み重ねて進化してきました。しかし、客観的な治療効果のみを突き詰めるほど、患者の主観的な思いが見落とされ、医療が必ずしも幸せに結びつかない場合もあったのです。
そこで2000年代から、患者を主体にした物語に基づく医療(ナラティブ・ベースド・メディスン/NBM)が提唱されるようになりました。人も動物も生きることは一つの物語であり、医療が患者の幸せな一生を支える時代に変わってきているのです。

私たち人間は、今だけでなく未来を生きられます。長期の治療や入院に耐えられるのは、その先を想像できるから。不治の病を抱えても「来年の桜を見たい」と目標に向かって生きられるがゆえに、日本では患者や家族の希望に応じて延命につながる医療が行われるケースが多く見られます。
一方、動物は今を生きています。つらい治療の先に待つ未来を想像するのは難しい。治るならまだしも完治が見込めない場合、飼い主さんが想像する目標に向かって治療を続けることが、果たして動物のためになるのでしょうか。患者である動物を置き去りにしていませんか。動物の立場で言えば、私は住み慣れた家で穏やかに過ごすことが幸せだと思うのです。
獣医療は、人間以上に物語に基づく医療、つまり動物にとって幸せな一生を支えることが大切だと考えています。これは決して根拠に基づく医療を否定するものではありません。動物・飼い主・獣医師の三者が根拠に基づいて話し合い、最良と思える物語を見いだすことが大切です。
生活の質を守ることから三者の物語は始まっている
動物・飼い主・獣医師の三者の物語は、健康なときから始まっています。病気やけがの治療だけではなく予防も含めて、広げれば生活の質を守ることにもそれぞれが関係しているからです。
たとえば、動物の痛みに気づけるか。急性痛はけがや手術の際に起きて徐々に落ち着いていくのに対し、慢性痛は日常的に続き、生活の質を下げる原因になります。歩くのが遅い、段差でつまずく、ソファに上がれないといった行動上の変化に飼い主さんが気づいて獣医師につなげなければ、いつまでも痛みを抱えた状態が続きます。「以前と行動が変わった」と思ったら加齢によるものと思い込まず、慢性痛を疑ってください。
見落とされがちな慢性痛のサインは、問題行動のように見える変化です。よくあるのは飼い主さんが犬や猫に触った拍子にかみつかれたというケース。人への攻撃行動に見えますが、じつは「痛いから触られたくない」というサインです。動物の生活の質を守るためには、飼い主さんと獣医師の連携が欠かせません。
「ゆるゆる」な暮らしが人と動物のウェルビーイングをかなえる
身近に動物がいない日本は犬猫リテラシーが未熟

日本は犬猫リテラシー(習性の知識や適切に飼育・管理する力)が未熟だと感じています。動物を管理する意識が高い欧米などでは、犬が街のレストランや公共交通機関に当たり前のようにいて、動物との付き合い方を学ぶ授業を設けている学校もあります。日本では飼い主さんはもちろん、多くの人が動物を知る機会が少ないにも関わらず、「人と動物の共生社会」という理想だけがひとり歩きしているように思うのです。
犬らしく、猫らしく生きるとは、きっと本能のままに生きることだと思いますが、現実は人間社会の中で人間の都合に合わせて本能がかなり抑制されています。だからまずは、飼い主さんが率先して犬猫リテラシーを高めることから始めませんか。動物のウェルビーイングの指標となる5ドメイン(5つの領域/健康・栄養・環境・機会・精神状態)を満たすことで、動物の本能を完全に満たすことはかなわなくても、今より幸せな暮らしに近づきます。
寛容性を高めた先にある人と動物の共生社会
獣医学的な立場で言えば、動物を飼育管理することは大切です。しかし、犬や猫の立場から飼い主さんに言うとすれば、「ゆるゆるでいいんじゃない」と思っています。人間だってそんなにちゃんと暮らしているわけではありません。多少の寛容さがなければ、犬や猫の一挙手一投足にピリピリするようになってしまいます。犬や猫のお世話を適当にしていいという意味ではなく、動物と暮らすにはある程度の寛容性は問われると思うのです。
家庭だけではなく、社会にも同じことが言えます。日本で犬や猫の飼育率が下がっているのは、昔に比べて社会から寛容性が失われてしまったからではないでしょうか。比例するかのように、日本の幸福度も年々、下がっています。イギリスのオックスフォード大ウェルビーイング研究センターなどが発表している「World Happiness Report 2026(世界幸福度報告書)」によれば、日本は147カ国中61位でした。
じつは動物の飼育率が高い国は、幸福度も高い傾向が見られます。犬や猫の飼育率が極端に低くなってしまった日本の幸福度が低下していることは、決して無関係ではないはずです。動物と幸せに暮らしている国がたくさんあるのに、もったいないと思いませんか。寛容性が高まらなければ動物は増えません。人と動物の共生社会は、寛容性を高めた先にあります。犬や猫と暮らすことは、私たちの幸せにもつながります。5ドメインで、ワンウェルビーイングをかなえた人と動物の共生社会をめざしましょう。
(文・金子志緒/撮影・山本佳代子/編集・sippo編集部)
